年末に、私の演劇ライフの中心にいた 第三舞台 の解散公演【深呼吸する惑星】を2回観た。1回目は、私に第三舞台を教えてくれた長年の友人と、そして2回目は独りで別れを告げに。
公演を見て思ったことを何か言葉にしたくて、一緒に観た友人にメールを書いてみた。書いて、返事が来て、それに返事を書いて、そしてまた返事が来て…。そのあと、まだ返事は書けずにいる。
未完の往復書簡4通。
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私から友人へ①
今日、最終公演が終わったようですね。
私は今回は懐かしさだけで、心は動かなかったのですが
ああ、だから、彼らは解散するんだな、って
思ったりもしました。
ファンだからという理由で
彼らの公演を歓迎して崇める人はまだまだたくさんあると思う。
私も喜んで劇場に足を運ぶ一人です。
でも冷静に客観的に今回の芝居を見て
20年前のような熱狂的な感動を与えられないことを
彼らは良しとしないような
少なくとも鴻上さんはそうなのかな?と思ったりしました。
今でも他のつまらない芝居に比べたら
まだまだレベルは高いと思うけど
やっぱり20年前とは違う。
すでに10年前にもパワーダウンは否めなかったもんね。
私、中学生の時に、薬師丸ひろ子が異常に好きで
まさに尊敬していたのです。
ま、薬師丸ひろ子が、っていうより、たぶん
【セーラー服と機関銃】の彼女をね。
その私のグルだった彼女は、
彼女が大学生になるころからオーラが消え、ただの人になった。
私の興味がさめるのと時を同じくして
彼女の女優としても時代も難しくなっていった。
長い時を経て、また女優として名前が聞かれるようになった彼女を
先日、トーク番組で見たとき
すごく軽やかになった感じで、素敵に見えたわ。
誰かのカリスマになった人は、次への着地の場所や方法が難しいと思う。
鴻上さんも、あの完全な時代を取り戻せないなら、
手放すしかないって思ったのかな。
10年悩んで、葬って、重荷をおろしたところで
軽やかに生きられる場所を見つけることができるのかな。
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友人から私へ②
そっか。
終わりましたか。
僕は、こないだ涙出た。
何でだろう?
でも、■■(私の名)と同じかどうかは分からないけれど、
心は、以前と比べて平穏だった。
僕は、彼らの芝居、鴻上さんの作品や演出に力の衰えをみるより、
自分の変化として、しみじみしてました。
いつか彼が言っていたように、
観客の個々の経験が、彼の作る物語を超えた力を持っていたら、
20年前であっても、色褪せて見えたかもしれない。
けれど、僕の場合は、やっぱり20年経った今だった。
随分ブランクがあったわけだけど、
でも、変わり続けると言った第三舞台が、
過去のどこかに止まったままだったように感じた。
それは、僕(たち)がそうしたのかもしれないね。
そして、鴻上さんも、超えられなかったのかもしれない。
でも、多分同じベクトル上に比較してもしょうがないことなんだろうね。
僕も、このことは、話しをしたかったんだ。
抱え込むのには大きすぎるってわけでもないけれど。
■■(私の名)が、薬師丸ひろ子に見た軽やかさと似たものを、
ひょっとすると、僕はあの日、彼の芝居を観た自分とかつての自分
との距離に感じたのかもしれない。
だって、手放すのが惜しくて歪むくらいの名残惜しさもなくて、
爽やかに別れを告げられるという気分だったし。
芝居を観た後で食べた定食も美味かったし。
これは自分でも意外でした。実は。
何でだろうね。
ゆっくり考えてみようと思います。
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私から友人へ③
■■(友人の名)にも迷ったり苦しい時期はあったと思うんだけど
きっと、きちんと着地をしたんだと思うな。
だから、さわやかに別れが告げられたんじゃないだろうか。
私はまだあの頃のまま、とても不安定な場所に立っていて
毎日が不安でしょうがない。
20年前には不安定な場所と言っても
まだ未来があったけど、
今は未来も可能性も、そうない。
まだ何者でもないけど、何者かになれるかもしれない可能性は
あの頃には、まだ希望として残ってたんだよ。
でも今は、それすらない。
20年前にすでにカリスマだった鴻上さんだけど
この20年で、やっぱり××(自主規制)になったと思う。
一緒にやってきた大高さんとは、ずいぶん立ち位置も変わってしまって
心はわからないけど、社会的に、経済的に恵まれてしまって
××になってしまった彼が、いくら下々の事を想像したとて
それは、やっぱり想像なんだろうな。
だから彼より過酷な日々を送っている者に
響くものはもう書けないのだと思う。
だから同じ土俵では生きていけない。
別のジャンルに移行する必要が出てきた。
だから、やめたんじゃないだろうか。
解散なんて、カッコ悪いよ。
解散なんてしなければよかったと思う。
続ける、変わらない、って本当に難しいし、貴重なことだと思う
今日この頃です。
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友人から私へ④
いやいや、単に、子育てが怒涛だからだと思う。
子供育てるって、やってみないと分からなかったことばっかり。
とにかく、自分のことは後回しにしないといけない。
無条件に優先して、自分以外の者に尽くさないといけない。
そんな感じ。
それを何とかやっていて、そしたら、心の敏感さが取れて来てしまった。
つまり、感度が鈍ってしまった。
という実感があります。悲しいけど。
だから、きちんとかどうかはともかく、着地したという自覚すらないわ。
なので、爽やかな別れというより、
正確には、それどころじゃない、ってことかも。
だから、不安を不安と感じる余裕もない。
そのせいか、こないだの彼の舞台の中に、
”解きたい謎”は、もう感じられなかった。
それは、自覚できる不安が自分の中に自覚的でなかったからかもし
れない。
禅問答みたくなってきたね。
鴻上さんの書いた戯曲の中の台詞は、今も時々口から出てくること
もあるよ。
才能とは夢を見続ける力のこと
というのもひとつ。
これは、素直に今も受けとめられて、
だから、未来も可能性も残されてないなんて思わないよ。
おめでたい、と思われても、言われても、
歳なんて関係ない。って思う。
今も時々、自分に言ってること。
確かに、解散という選択と決断については、ちょっと考えるね。
続けることを、あれだけ語って来た人だけに。
でも、明らかに、彼が輝いていた頃と、社会も世界も変わってしまった。
それは、疑いようがないことだと思わない?
その相対の中で、彼も分からないのかもしれない、とも思った。今。
つまり、彼のモチベーションを生み出すものが、
社会にも世界にも、以前のようにはなくなってしまった。
それを見つけようとあがいても、以前のように自分の中に湧き上がって、
あるいは、立ち上がってこない。
その焦りを、彼自身も何年も抱え続けて来たんじゃないだろうか。
だって、他に面白い芝居があるかっていうと、あるんだろうか?
映画も、テレビドラマも・・・。
どちらも、ぜんぜん観ていない僕が言っても、
何の説得力もないけどね。
やられた!というものに、最近出会っていないわ。
また、話ししたいです。
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