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13/04/2000

南仏プロヴァンスの旅 : Voyage en Provence. vol.3

私のパリでの4年と数ヶ月に渡る留学生活は、母の提案もあって、私の大好きな南仏プロヴァンスの旅で締めくくる事になった。母にとっては初めてのプロヴァンスだし、私にとっても思い出に残る旅にしたい。私は今までの経験から経済的な旅の仕方を心得ていたし、その上今までにない円高(対フランス・フラン)は追い風になった。叔母も参加して女3人の旅・・・、私達は思い切って3週間の予定を立てた。

帰国前の追い込みで論文の資料集めに図書館、古文書館へ毎日通いながら、たくさんの船便を日本へ送り出し、こちらで「帰国売り」(日本へ持って帰れないものを広告に出して売ること)と呼ばれる大仕事もすんだ。家も引き払い、友人キャロリーヌの家に移って私は母達のパリ到着を待つことになった・・・。

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le 24 mars 2000 到着

とにかく始まったのだ。夕方、予定通りに母と路子おばさんはパリに 到着。明日の朝早いので出発駅(リヨン駅)に隣接するホテル・メルキュールを予約しておいた。簡単な夕食を、キャロとよく通ったリヨン駅前のレストランで取る。そしてなんと10時には二人とも寝てしまった。私は当分会えなくなるフミ子にとりあえずのさようならの電話をかけ、お風呂に入ってくつろいだ。 夕べは忙しくてほとんど寝られなかったが、今日ももう遅い。明日は5時起き。寝不足が続くなあ・・・

明日は懐かしのアルルです。

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le 25 mars 2000 アルルへ

今朝はいよいよ南に出発。早朝6時54分の列車(TGV)に乗り込むために早々とホテルをチェックアウト。駅構内のカフェで急いで朝食を食べる。静かな列車の 中で私達はペチャクチャずーっとお喋り。だって久しぶりの再会なんだもの。アヴィニヨンまでの4時間はあっという間に過ぎた。そこでアルル行きのローカル列車に乗り込み、20分。ここは前回と同じアルラタン・ホテルを予約しておいた。

Arles1早速街に出かける。アルルは小さい街なので、徒歩で充分。街の広場で軽く昼食を取った後、女3人プロヴァンス柄の布地、キルティングなどを楽しく見て回った。結局少し値が張るのでここでは誰も買わず。でも私は是非プロヴァンス柄の青いバンダナを1枚欲しいと思っている。母と叔母はお土産や絵葉書を購入。そしてようやく古代劇場や古代闘牛場などの観光に。闘牛場の最上階からの眺めは素晴らしいもので、二人とも満足げ。夕方、ゴッホの絵にもなったことで有名な現エスパース・ヴァン・ゴッホに立ち寄り、ようやくお茶の時間。ホテルに帰ったあと、夕飯までの一時ホテルで休憩。二人ともちょっと疲れている様 子。でも天気も良かったし、初日としてはまずまず。今回の旅は母達の体力に合わせて無理のない予定、のんびりが目標。今回私は、有能な添乗員に徹する事にしましょう。

夕飯はホテルの近くの手軽な値段のレストランで。迎えてくれた主人の応対も心地よく、二人とも「おいしい、おいしい」と食べてくれた。特に母は今日のお昼当てが外れて少し残念そうだったから特に嬉しかったみたいだ。前菜、メイン(二人は鴨、私は雄牛)にデザートで94Fはなかなか満足。今日はこれで終わり。おやすみなさーい。

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le 26 mars 2000 アルル~モンマジュール~タラスコン~アルル

今日は日曜日。日曜礼拝に参加したいという叔母に付き合い、母と私も参加してみる。パイプオルガンが聞きたくて、礼拝の終わりに顔を出したことはあったが、始めから参加するのは初めてのことであった。少々長かったことと、軽装のため教会内の寒さに耐えられなくなって途中で出てしまったのだが、叔母も満足してくれたし、私たちにもいい経験だった。今日もなかなかいい天気。

Montmajour今日はまずモンマジュールの修道院を訪れる。予定してなかったのだが昨日、観光局で入場割引券をもらったので「行ってみようか・・・」ということになった。ただバスは本数がなく、お昼前に1本、午後に1本しかない。そのあとできればタラスコンに行きたいと思っていたので、私たちはお昼前の便を選んだ。観光局の近くにあるバス停でバスを待っていると、「こんにちは」と日本人のご夫婦が話しかけてきた。彼らはモンマジュールより先のドーテの風車を見に行くという。色々と旅の話をしながら、やがてやってきたバスに乗り込み「じゃあ、また後で」と私たちはモンマジュールでバスを降りた。(バスの本数がないので)帰りのバスもきっと一緒だし、そのあとタラスコンに行く予定まで同じだったのだ。し、しかしモンマジュールの門はかたく閉ざされていた。そう、恐るべきフランスのお昼休みである。正午になったばかりの上、開くのは2時。アルルに戻るバスはその直後にやってくるので、ゆっくり見学している時間はなさそうだった。その上、ここにはこの修道院と閉まったレストランしかない。私たちは巨大なモンマジュールの修道院を見上げながら広場でおしゃべりに興じるしかない・・・。その上、寒いぞ!いつもフランスを旅していて不満に思うのがバスのダイヤ。ほとんどの場合、観光客のことを無視したダイヤであることが多い。言わしてもらうがフランスの第一の産業は観光である。はっきり言ってここモンマジュールは観光名所でしかない。ここでバスを降りる住人は皆無だ。ならバス停は観光客の為にあるのではないのか。むかつく。お客が着く直前に扉を閉めて、街へ戻るバスがやってくる直前に開けるってどういう神経なんだ!!!

Arles2ようやく開館の時間。見学する時間はないので、修道院でお手洗いを借りて、しかたなくアルルまで戻ることにした。し、しかしこいつらはトイレも貸せないと言う。まったくフランス人め!!!ここでは入場料を払わないとトイレにアクセスする権利はないのだそうな。アルルまではそれほど遠くないので「じゃ、結構です」と私たちは修道院を後にした。空はきれいに澄み切っていた。こんな空とは違い、なんと不愉快な事。やがてバスはやってきて、日本人のご夫婦とまた再会。私たちはアルルに戻った。駅からホテルまでは1キロほどあるので、駅でお手洗いを借りよう!と探すとあるにはあるが、鍵がかかっている。駅を出た所には、パリでもおなじみのコイン式の公衆トイレがある。「あ、あるよー」と近づいて見ると 《故障中》・・・なんなんだろう、今日は。しかたがないので、私たちは駅前のカフェに落ちついて、ようやくトイレに行き、次のタラスコン行きのバスを待つことにした。

またまたご夫妻と一緒になった。タラスコンは小さな街だがプロヴァンス・プリントで有名なメーカー「souleïado」がある。この街ではトラブルなし、昼下がりの散策をご夫妻と一緒に楽しんだ。アルルへの帰りの便はバスではなく列車。時間帯もあってか、少々混んでいた。私は母と叔母の為に空いている席を探すが、上着や荷物を座席に置いている人が多く、タラスコンから乗ってきた人は誰も座れない。「荷物、どかしてもらおうか?」と聞くと、二人とも「すぐだから大丈夫よ」と言ってはくれたが何か失望感のようなものが伝わってきた。フランスのシステムに慣れさせられた私だって今日はこんなにむかつくんだもの、日本からやってきた二人にはもっとショックだろうと思った。

明日はいいことがあるといいけど・・・。今年の春は遅いね。

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le 27 mars 2000 アルル~アヴィニヨン

朝、出発を前に昨日礼拝に参加したサン・トロフィーム教会の有名な回廊を見学し たあと、アヴィニヨン行きのバスに乗るために観光局前のバス停へと荷物をガラガラ引きながら歩いて行くと、その教会の広場で昨日散々一緒になったご夫婦にまた再会。これはよほど縁があるらしい。彼らは今夜マルセイユ経由で日本に帰ると 言っていた。そこで初めて名刺の交換。退職後、ぼちぼちフランス一周旅行を目指して頑 張っている宮沢ご夫婦。またいつかどこかで会うことがあるかなあ・・・

Avignonアヴィニヨンからパレ・ド・パップ(法王宮殿)の横にあるホテルまで、またまたガラガラ徒歩。ホテルは本当に真横にあり、地味な外観からは想像でき ないほど快適な室内であった。
Avignon2_2午後はさっそくこの法王宮殿を見学。二人はあまりの階段の多さに閉口。だいぶ疲れた様子で二人はそのあとホテルに帰って休憩。私は一人で法王宮殿の屋上に上ってみた。こんなところにも小さなカフェがひっそりとあった。

3月の空はまだ少し青さが足りない。それはちょっと残念。抜けるような真っ青な空と暖かい太陽の光を私は期待していたのだ。街を見下ろしながら、数週間後には日本にいる自分がまだ信じられないでいた。

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le 28 mars 2000 アヴィニヨン~水道橋~ユゼス村~アヴィニヨン

今日はなかなか過酷な一日であった。天気は相変わらずいい。母たちの到着以来、 フランスは全国的に冬型で雨や雪のマークが続いているのに私達のいる地方だけはなんとか天気を保っている。アヴィニヨンは連泊をするので、今日は荷物から開放されて、近くへ遠足に行くことになった。バスまでの時間、パレ・ドゥ・パップ の裏手に広がる眺めのいい公園へと案内する。もちろんお土産物屋さんをのぞきながら ・・・。

Pont2その後の予定は12h05のバスでまずポン・デュ・ギャールへ向かい、そこでユゼス村へのバスの時間を待ちながらお茶でも飲みながら過ごすつもりであった。 しかし、しかしなのである。思い通りになるわけのない田舎旅。私には覚悟もできているが、60代も半ばの二人にはかなりきつい体験が待ちうけていた。今、橋は大掛りな修復中で(後でわかったことだが)大型のトラックが往来する道を、降りたバス停から運転手の教えてくれた方向へ10分ほど埃まみれになって歩かなければならず、足元もかなりきつい。ようやく見えた橋は確かに絶景だが、今度はその工事のせい で周辺のホテルや店などもすべて閉鎖されていたのであった。時間をつぶすにもつぶせず、トイレもなく、公衆電話もなく、16時までバスもない。私達はそれでもとりあえず降りたバス停まで戻ってみることにした。ここにも工事のトラックが激しく往来 するだけで他には何もない。どうしようもない二人の苛立ち(と空腹)を感じなが ら、私は生まれて初めてのヒッチハイクに挑戦。幸か不幸か誰も止まってくれる人はいなかった。それで視点を変えて民家を訪問することにした。道行人よりきっと親切に違いない・・・。最初に見えた民家の庭で石を割っているオジさんがいた。すでにある家を改築中のようである。

「すみません、ここのかたですか?」

「そうだよ」

「お邪魔して本当に申し訳ないのですが、隣街のユゼスまで行きたいのですが、 バスも休憩する場所もなくて困っています。彼女達も疲れきっていて、タクシーを呼ぶ為に電話を貸してもらえませんか」

「(困っているのは)わかりますよ・・・。でもこの家にはまだ電話がないんだよ」

「もしかして携帯をお持ちですか?」

「ああ、持ってるよ。使ってもらうのは全然かまわないが、タクシーの番号は知らないんだよ」

「電話帳とかあります?」

「家の中には何もないんだよ」

「電話番号案内とか・・・」

「それもわからないね」

「そうですか・・・、残念だな・・・」と困っていた。

「まあ・・・そうだね・・・、もう少し待ってくれたら仕事を終えるので車で送ってあげてもいいよ」

「ええ??? (^O^)/ 本当ですか???

「本当ですか???!!!それはご親切にありがとうございます!!!で・・・いつ終わるんですか?」

「そうだねえ、10分くらいで終わるようにしよう」「本当にありがとうございます。じゃあ、そこらへんで待っています」

Uzes・・・全員で、きゃほー。オジさんは本当に10分で仕事を終えてくれて、色々な集落に立ち寄りながら、そして名所を案内しながら、帰宅に遠回りになるユエズまでの道のりを 走ってくれる。私のフランス語が上手だと言ってくれ、私達は色々な話しをした。彼がさっき建設していたものは、これから彼が経営する民宿。今度の夏にはもう数部屋をオープンするらしい。今はニームに住んでいて商売をやっているらしいが、民宿の仕事をしながら、こういったガイドを宿泊客にもしたいという。私には「タダで泊めてあげるよ」・・・って言ってくれた。母とおばとが「お礼にお金を渡してね・・・」と言うので仕方なく最後に渡そうとしたが、彼は頑として受け取らなかった。私達も無理強いはしなかった。 彼は本当に親切でしてくれたのだろう。その親切にお金を払うのはそれを汚す行為のように思えた。握手をして笑顔で別れた。母も路子さんも実はこの間のトイレ事件以来、かなりフランス人に幻滅していたので、このオジさんの出現は、二人のこの悪い印象を一気に吹き飛ばした上、逆に心にいつまでも残る良い思い出になった。 ありがとう。おじさん。今日はこれにつきる。

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le 29 mars 2000 アヴィニヨン~ゴルド

今日も見晴らしの良い私達の部屋もある6階の食堂でビュッフェ形式の朝食をゆっくりと取る。そのあと念願であったカルヴェ美術館へ行くが、ちょっとした思い違いから今回もまた見逃すことになってしまった。結局またお土産物を見てしまい、それぞれが何かを買ってしまった。ちょこちょこしたかわいいものがいっぱいあって、買わずにいるのは至難の技。そして私達のホテル前の広場に陣取っていた、昨日も立ち寄った水彩画家の前で、再び叔母が立ち止まった。

昨日のことを覚えていたお兄ちゃんはとても愛想が良い。しかし一番のお気に入りは安く出来ても350Fと高いので、それと同じ構図のもので小さな1枚100Fの絵の値切りをすることになった。彼は2枚で150Fを提案してくれたが、母は120Fと言う(買うのは叔母だが・・・)。ゲラゲラ笑いながらカケヒキの会話が続き、結局「この値段じゃあ、元締めに首を切られ るよ・・・」と言いながらも彼が折れた。1枚60Fになったところで母が「それなら私も!」と、計3枚で180Fのお買い物になった。フランスで建築を勉強したというイラン人のお兄ちゃんとの楽しい一時であった。

Gordes12時ごろホテルをチェックアウトして、タクシーで一路リュベロンのゴルド村 へ。セルジュ・ゲンズブールのような無口な運ちゃん。およそ40分、350Fの旅であった。ゴルド村の全景が見えたところで私達はタクシーを降りてその雄大な景色を心行くまで味わった。母も路子さんも二人とも感動の嵐。確かに今まで旅した集落の中でも規模が大きく、圧倒的な迫力がある。なにしろ集落のプロポーションがいい。今までいくつも集落を訪れたが、こんなに見渡しの良い距離からは見たことがなかったような気がする。

Ghotelホテルは旅行中で一番デラックスな4つ星。私の大好きなルレ・エ・シャトーグループに加入しているので品質とサービスは信頼できる。ロビーから見下ろせる谷の絶景にすでに満足しきっている私達は、淡い南仏のブルーで統一されたとてもチャーミングな部屋に案内されてさらに大満足。部屋でお茶を飲みながら休憩をした後タクシーを呼んでもらい、ゴルドの周辺にあるラベンダー美術館と前から行きたかったセナンク修道院を回ってもらうことになった。見学中の待機時間も全部合わせて200F。日本では考えられない安さだ。その上3人だから本当に安い。タクシーは普段割高なように感じるが、こうして何人かで旅をするなら、それほど気になるものではない。特にこういう田舎を旅するとき、交通機関がほとんどないため、タクシーは私達の強い味方になる。

Senanqueラベンダー美術館での親切なもてなし、このハイジのおじいさんのようなタクシーの運転手さん、ホテルの人達・・・今日はとにかく気持ちの良い人ばかり。今までの苦労と疲労がぶっ飛ぶね・・・と言いながら、これまた旅行中最高の夕食を前に語り合う。ホテルのレストランでの夕食もサービス、味ともに最高であった。幸せのうちに一日が終わろうとしていた。が・・・最後に食後のコーヒーを私が注文した時、コーヒーではなくすぐにマネージャーがやってきた。

「申し訳ございませんが、ただいま水道管の問題が発生しまして、ご注文のコーヒーをお持ちできません。このマシンは直接水道管につながっておりますので・・ ・。もしよろしければ他のハーブティー、紅茶など、水を温めていれるものは出来ますが・・・。もちろんそれはサービスさせていただきます」

「それではありがたくハーブティーを3つ(コーヒー1人前を3人前にさせてずうずうしい(~_~;)が・・・)いただきますが・・・、でも、・・・と言うことは部屋の水も出ないのですか???」

「はい、今のところ」

(3人「がーーーーん」)

「ただいま復旧中ですので5分か10分後には回復すると思われます」

(私、信じてないが・・・)

結局またまた水の難。もちろん復旧などするわけもなく、私達は顔も手ももちろん気持ちよく洗えず (温水タンクにたまっている熱湯を冷まして使った)、風呂にも入れずに寝るしかなかったのであった。ちゃんちゃん!!

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le 30 mars 2000  ゴルド~ルシヨン~ラコスト~ボニウ

結局、朝になっても水道の問題は解決しなかったようだ。朝早く叔母がフロントまで降りて行って聞いたところによると(叔母は英語ができる)、事故があって事故車がどこかに衝突した際、村の水道管を壊したらしく、このホテルを含む地域全体が断水になったということであった。私達はせっかくの豪華な風呂を使えなかっただけでなく、トイレの水を流すことも出来ない。各トイレのタンクに残っている水は流すことが出きるので、他の部屋の鍵を 貸してくれたが・・・しかしなんとも昨日の感動をぶち壊す不便さであった。 朝食のあと、精算の際、室料をそのまま請求されたのでちょっとむかつき「水が一切使えなかったのに何のご考慮もないのですか?」と聞いたところ、4つ星ホテルとルレ ・エ・シャトーグループに加入している名誉にかけてか???200Fはすぐに引いてくれた。でも200Fじゃ甘い!それに本当はこちらが何も言わなくても、向こうから考慮すべきじゃないのか。水道管の破壊はもちろんホテルのせいではないが、100%のサービスを提供出来なかったことは確かだし、それ以外のことでは私達はこのホテルをとても気に入ったけれど、結局は残念なことに快適な滞在とは言えるはずもなかったのだから・・・。

Roussillonそのあとタクシーを呼んでもらい、今夜の宿泊地ボニウ村に向かう。今日のタクシーの運転手さんもとても優しそうなおじいさん。色々とお話しをしながらルシヨン村とラコ スト村に立ち寄ってもらって少し村内も楽しんだ。

Foisgrasルシヨン村はファンデーションや 絵具の原料オークルの採集で16世紀頃から栄えていた。南仏のこれら高台の集落の中でも 文字通り異色。赤茶や黄の断崖が剥き出しになっている。これはまさにフォアグラの絶壁(おいしそう?)。集落の家々の壁も赤や黄色が多く、色あせた乾いた色彩が他の集落とは全く違う雰囲気をかもし出している。

ラコストは以前訪れたことのあるサド公爵のお城の廃墟がある事で有名。私が前回来たときに書いた「ご自由にお入りください」は見つけられなかったし、その彫刻家のアトリエも今日は閉まっていたが、お城のところまで急な石畳の坂道を登って行く。今日もお天気に恵まれて最高の眺めを楽しむことが出来た。 しかし、またまたハプニング。ボニウ村に到着してホテルの前にやってきたがホテルの扉は閉められていた。予約確認の時も昼休みを取るなんて書いてなかったので ちょっとこれは不親切。タクシーのオジさんも心配してくれて、あちこち電話をかけてくれたり 色々私達のために考えてくれたが、彼をこれ以上引きとめておくことは出来ないので、結局一番近いカフェまで連れて行ってもらって、ホテルの昼休みが終わるのを待つことになった。せっかくタクシーを使うならドア・ツー・ドアが良いに決まっている。私達には重い荷物 がある上、このカフェからホテルまでは結構な坂道を登って行かなければならない。 母はまた心配をし出すし、私も思いがけないことの (いや、フランスだから・・・というあきらめは入っているけど・・・)連続でちょっとがっかりした。

お喋りもいいが、2時間も荷物とともにカフェに留まっていなければいけないのは、けっこうしんどい。せっかくのいい天気なんだから散歩でも出来たら楽しく時間も過ごせるに違いない。せめて観光局で荷物でも預かってくれたら・・・とかけあってみるが、教科書通りの答え。ホテルが何時に開くかも知らないと言うのみ。「村に数件しかない宿の情報くらい統轄しておけ!」とぶつぶつ思いながら、私は観光局とホテルとカフェの間を陰気な気持ちで行ったり来たりしていた。

Bonnieux3時すぎにようやくホテルが開き、きつい石畳の坂道を肉体労働者のように荷物をひきずって歩いていく。私が一人で何往復かするから・・・と言ったが、そんなことはさせられないと母達も息を切らして頑張ってくれた。ホテルで迎えてくれた女性は前の人と違う愛想のかけらもないお手伝いの女性だった。私が文句を言っても、その意味は理解されない。しかし話をしてみて理由がようやくわかった。前泊まった時とはオーナーが代わっていたのだ。宿の名前もパンフレットも引き継がれていたので、私も気付かなかった。きっと以前と同じ気持ちのいいサービスが受けられるものだと信じ込んでいたが、残念ながら新しいオーナーは遠くからやってくる客を思いやる気持ちに欠けているらしい。通常このような昼休みに玄関を閉めてしまうような宿は、そのことを予約の際にきちんと知らせておいてくれるもので、それによって客も到着時間を加減したりできるものだ。まあ、もう仕方ないだろう。私が大好きな宿を一つ失ってしまっただけだ。私は一つだけわがままを言って、前と同じ9号室の部屋をもらった。部屋のテラスから正面に見えるラコスト村に沈む夕日を見ながら、思いにふけった。今夜はお湯のたっぷり出るお風呂につかって、トイレの水が流れることを嬉しく思いながら・・・明日に期待。

追伸:前回の滞在時のような満天の星空が見えなかったのが、とても残念。

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le 31 mars 2000 ボニウ~セニョン

Saignon1朝から雨。今日はタクシーでセニョン村に移動するのみ。予定は何もない。迎えに来てくれたタクシーの運転手、フランス人歌手エディ・ミッチェル似のクロードおじさんと楽しくお喋りをしながら行く。マルセイユ出身の彼は15年くらい前からこの土地にやって来て甥のオリヴィエ君と一緒にこの仕事をやっていると言う。走りながら色々説明 をしてくれながら、30分程で懐かしのセニョン村に到着した。初めてここへたどり着いたときの感動を今でも鮮明に覚えている。この村は私が南仏に魅了される きっかけの一つになった。懐かしい宿の人たち。特に人懐っこいお爺さんはよく覚えている。今回も予約をしていた想い出の「青の部屋」に案内されると、ラベンダーの強烈な香りが私達を迎えてくれた。ちょっと驚いたのは、以前はみすぼらしかったシャワー室が立派な近代的な浴槽のあるバスルームに変身していた事。嬉しいような、淋しいような・・・複雑な気分。

Saignon2残念ながら雨はだんだん強くなり、散歩も出来ない。サロンの暖炉の前に陣取って、宿の人たちと話をしながらお茶を頂いたり、そしてちょっと昼寝をしたり、部屋でコンピューターをいじったりしながら、夕食の時間を待った。そうするうちに天井の隙間から雨がもれてきた・・・。 南仏らしい夕食をおいしく頂きながら、雨はますます強くなってくる。お爺さんの説明によると約4ヶ月ぶりの本格的な雨らしい。恵みの雨・・・。そういえば3年前に泊まったときも雨だったよな・・ ・。お腹を満腹にして部屋にあがると雨漏りはますますひどくなっていて、バケツで受けないといけなくなっていた。部屋のテラスから遠くにライトアップされたラコスト城が見える。ひとしきり母とおしゃべりして眠りにつく頃、雨は止んでいた。明日はきっと晴れるらしい・・・。

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le 1er avril 2000 セニョン~エクス・アン・プロヴァンス

Saignon3朝、7時半頃起床。窓の外は霧がかかっていてとても綺麗な色。思わずパジャマのまま飛び出すと、まだまだ寒かった。見ている間にもだんだんと霧が晴れていく。今日は本当に晴れた!お爺さんの言っていた通りじゃん!

朝食を食べていると、外国人のお爺さんと日本人の女性のカップルが降りてきて 「おはようございます」と挨拶をされた。ドイツ語を話している。興味がわいたので話しかけてみると、日本に長く住んでいた社会学者だとか。とても流暢に美しい日本語を話す。

Saignon5朝食のあと、見事に晴れ渡った村の中を散歩する。すると村のワン子が仲間に入ってきた。少し前を歩いては立ち止まり振りかえり私達を待っている。なんか私の犬みたいな感じになってきた。「おいで」と指を鳴らすと私の足元に戻ってくるし、なんとも可愛いヤツ!

残念なことに村の頂上、大きな断崖のてっぺんは現在閉鎖中で登れな かった。3年前もここから先は安全の保障はしない、というような看板が立ってはいたけど、入れることは入れたのに・・・。あそこからの眺めは最高にいいので、母達に見せてあげられなくてちょっとがっかりした。

村を軽く一周した朝の散歩、犬は宿の前まで私たちを送ってくれたあと、 どこかへ行ってしまった。犬との一時。なんか心が通じ合ったようで、やさしい気持ちになる。 今からアプトに買出しに行くという宿のお爺さんとも握手をしてさようなら。またね!と是非実現したい再会の約束。1時には昨日のクロードおじさんも迎えに来てくれて、ルールマランという集落を経由して一路エクスへ・・・。

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le 2 avril 2000 エクス・アン・プロヴァンス

Aix朝食は近所のパン屋で買ってきた焼きたてのパン。その後、叔母は日曜礼拝に、母と私は残って洗濯をすませた。昨日から泊まっているアパート形式のホテル・シタディヌは部屋も2つあるし、キッチンもあるし、地下駐車場にはボロっちいけれどもコインランドリーもある。村では趣のある宿に泊まり、食事も宿でお世話になる。それはそれで楽しみなのだが、旅も長くなるとレストランの食事自体が体力的に負担になってくる。都市部ではこういったアパート形式のホテルに泊まって (人数が多いとより経済的だし) 自炊をすれば、スーパーで買い物をしたり、パジャマのまま部屋で朝食が食べられたり、また別のよさがある。これから最終地リヨンまでは都市を回るので、その間ずーっとシタディヌ。これも旅を安く上げるための秘訣。

午後は部屋での昼食の後、散策に。今日は第1日曜日。美術館が無料の日なので、グラネ美術館とタピスリー美術館を見て回った。久しぶりにたくさんの人を見て、不思議な気分だ。いや、正直言うと気分が悪い。エクスはパリと比べるともちろん小さな地方都市。でも今までの村々に比べると断然都会。この数日間、本当に時間は穏やかに過ぎていた。まるで夢でも見ていたかのように・・・。私にとって南仏とはやっぱりリュベロンのことで、私にはあそこでしか得られない何かがあって、これからもずっとあの土地に憧れを抱いて生きていくのだと思う。私の大切な場所。今度はいつ行けるのだろうか・・・。

帰り際、ポツポツと雨が降り始めた。強風も吹き始め今夜は荒れそう。明日はニースへ移動日。

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le 3 avril 2000 ニースへ

母が昨日から少し風邪気味。心配だったが今日はニースへの移動日。行ってしまえば3泊ゆっくり出きるので、頑張ってマルセイユ経由で移動。天候も昨日の夜から嵐。 強風だけでなく今日はとうとう本格的な雨。せっかくの初めてのニース。照りつける太陽を期待していたが・・・。

Nice1ここまでタクシーの運転手さんは本当に優しくて親切な人ばかり だったけど、ニースについた途端、少しふっかけられた気がした。初めての土地だったけど、なんとなく遠回りしているのがわかった。ホテルはエクスから同じシタディヌだが、エクスはとても広く、新しく、快適だったが、こっちは少しぼろっちい。でもここから有名な海岸通りプロムナード・オングレは歩いて200mくらいだから許せるって感じでしょうか。

フロントでスーパーの位置を聞き、叔母と私はスーパーに買い出しに出かけた。夕食の準備は叔母がやってくれるというのでお任せして、私は街で一番大きなジャン・メドゥサン大通りまで出て見た。たが、何だかうんざり。セニョン村からエクスについたときも人の多さにうんざりし たが、こっちはもっと大きな街。ああ、静かな村にもどりたいなあ。フナックで今までの写真を現像に出して、家に帰った。あーあ、せめて太陽が見たい。

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le 4 avril 2000  ニース

本当なら今日はゆっくり隣街に遠足に行きたかったが、母の風邪がすっきりしない上、天候も最悪。雨がじゃんじゃん降っている。仕方がないので、午前中は部屋でゆっくりしていた。

Nice2昼食の後、雨の降る中一人で近所のマッセナ美術館に出かけたが、なんと1年前から18ヶ月に及ぶ修復工事中。がーん。今回は本当についてないのかも。一人とろとろ海辺を散歩しながらホテルに戻る。そのあと叔母と昨日出した写真を取りに大通りまで散歩。大通りまでのフランス通り、メッセナ通りは歩行者専用になっており、可愛いお店がたくさんあった。ほとんどすべての雑貨屋をのぞいて、ようやく私はプロヴァンス柄のエスプレッソ用カップを私のために購入した。

ニースってシャーベットオレンジや、黄色や、サーモンピンク色のロココ調の派手な建物が実に多い。パームツリーもあちこちにあるから南国色が強く、パリとは確かにちがう印象を受ける。よく見て歩くと私の勉強している時代(1900年様式)の建築がたくさんあって、かなり質は高いとわかった。

ともかくこんなに雨に降られちゃお手上げよ!明日にかけるしかないのだ。 明日もニース。

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le 5 avril 2000 ニース

Nice3晴れた晴れた!ようやく晴れた!!!2日間の雨と母の不元気が同時に解決。ニースに来てこの紺碧の海を見ないでどうするのだ!!!悪天候のもとでもすでにここの海の色が特異なことはわかっていたけど、晴れたらさらにキラキラ度が違う。こんな海の色は見たことがない。ブルターニュのエメラルド色の海も綺麗だったけど、これは青でも藍でも蒼でもない。これはブルーとしか良いようがない。いくつかのブルーのグラデーションのあとそれは空につながって行くのだ。

Nice5今日はこのイギリス人通り(海辺の散歩道)から始まって、旧市街で朝市を楽しんだり、カフェでゆっくり日光浴をしたり、屋上テラスからの眺めの素晴らしいと評判の現代美術館まで歩きによく歩いた。ホテルを出て約6時間。ゆっくり久しぶりの(ような気がする)太陽の光を浴びながら、そしてお買い物を楽しみながら、ニースの色を満喫。とてもセンスのいい雑貨屋で母が手に取って眺めていたエスプレッソのタスを私からのプレゼントにした。2月の誕生日のお祝いをまだあげてなかったものね。母はこの街が、この海が一番気入ったようだ。思い出とともに私のタスも大切にしてね。

明日はマルセイユに移動。

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le 6 avril 2000  マルセイユ

Marseille2今日ニースからマルセイユに移動。駅につくとホテルが近すぎると言ってタクシーの乗車拒否!に会う。たしかに1kmないんだよな。これなら少々ぼられても乗せるほうが親切なのか???否か???旅の疲れがたまってきたところへ荷物を持っての移動は二人にはきつそうだった。 私もみんなの荷物はいっぺんに持ってあげられないので、心苦しいところ。

ホテルは今日もシタディヌで、昨日のニースよりは清潔感があっていい。でも残念ながらここは 1泊だけ。お茶をいれて一服した後、街にでる。

ホテルは旧港のすぐ近く。途中にあった超安スーパー「TATI」を紹介する為にちょっとのぞいた。とんでもなく安くて、質の悪いもののオンパレー ドだけど、二人ともおもしろそうに見ている。私は9F90(約170円)で象柄の割合大きいインド綿風呂敷をゲット。インド綿好きの私としてはちょっと得した気分。これはなかなか200円では買えないと思うんだけど・・・。

Marseille1二人を是非乗せてあげたかった市内観光用ミニ列車はもう営業時間が終わっていてアウ ト。でも市バス(60番)に乗ってマルセイユ市内を見渡せるノートルダム・ドゥ・ ギャルド教会までは行ってきた。朝から不安定だった天気もこのときばかりはきれいに晴れてくれた。

夕食は旧港の周辺で先ほどまでいた高台の教会を眺めながら。私は皆の期待に応えて (自分達は食べたくないが見てみたい)、簡易ブイヤベーズを食べた。でもこれって言ってみれば単に魚スープ?に魚が浮いているもの?って言う感じで私にはイマイチで あった。これならきっとスーパーの魚スープの方がおいしいかも・・・。あ、それともレストランがまずかっただけかも。 明日はいよいよ最終地点(パリをのぞく)のリヨンへ移動です。

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le 7 avril 2000  リヨンへ

きれいに晴れ渡ったマルセイユを最後に南仏に別れを告げる。今日はいよいよおまけのリヨンへ。車窓からの風景を見ていると、確かに数日前からの緑の色が違ってきている。これで少し私の知っている春の南仏の色に近づいてきた。今回は以前より少 しばかり日程が早かっただけなのに、半そでになることもなかった。どちらかと言えば肌寒いような気候が続いていたので、少し残念だったなあ。今度こそはラベンダー が満開の頃にきて見たい。

マルセイユの駅でTGVを待っていた時、かなり年配と思われる男性から話しかけられた。それも日本語だ。あまりの流暢さに3人ともびっくり。何でも彼はマルセイユにある日仏協会で日本語を習っているとか・・・。いつか行ってみたい国、日本の言葉は世界で一番美しい言葉、と言ってくれた。習ったことの実践も兼ねて毎日駅にやってきては日本人に話しかけているらしい。おじいちゃんがいつか日本に行くことができますように。そして彼を失望させることのない日本でありますように・・・。

Lyon1今日は久しぶりに全国的に快晴らしい。1年ぶりのリヨン。1年ぶりのシタディヌ・リヨンに新米ののろまなタクシーの運転手に案内される。出迎えてくれたのは1年前にも受け付けてくれたお兄ちゃんだ。今日は最上階のデュプレックス式アパート。その上今回もサービス企画を利用して料金は半額。地方のシタディヌは2部屋のアパートでも1泊1万円程度。それがサービスの利用によって2泊で1泊分になるわけで、1人あたり2泊3千円ちょっとになる。これは見逃せないサービス (bon week-end en ville)です。

3人で恒例になってきたチェックイン後のお茶の時間の後、街に出る。もちろんリヨンの基本は高台から眺める風景。なんせこれは世界遺産にも選ばれているのだから見逃せない。二人とも「リヨンは整然として綺麗なところねえ」なんて言っている。よほど今までのところが汚く見えたかな?

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le 8 avril 2000 リヨン 

Pain2_4 数分後⇒  Pain_3        

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le 9 avril 2000  リヨン~パリ

Origami今日は最終地、パリへ。リヨンからパリまでのTGVの中で、シャイな折り紙少年に出会った。私たちを日本人と認識したのか、彼は器用に動物の顔を作ってニコニコとプレゼントしてくれた。「どうして知ってるの?」と聞くと「学校で習った」って。これをきっかけに少年と母の折り紙大会が始まった。パリまでの2時間、周りの人も見守る中、折り紙作品がたくさん出来上がった。リヨン駅からモンパルナスにあるホテルまでタクシーに乗ったのだが、もう一歩遅ければ毎週日曜日恒例のローラーブレードの会(警察も出動して交通規制がなされる)に巻き込まれてかなりの大回りしないといけないところだった。

私と母は預けていた荷物をキャロ邸に取りに行く。日本に持って帰る荷物が集合するとホテルの部屋は一気に狭くなってしまった。叔母は明日一足先に一人で帰国します。今夜は解散式。

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le 10-12 avril 2000 パリ

10日。午前中に叔母を見送った。

残った私たち親子は特別なことをせずに、普段のまま、残りのパリの時を過ごした。スーパーで買物をしたり、ウィンドーをのぞいたり、カフェでおしゃべりをしたり・・・。何か私にはまだ信じられなかったのだ。私がここからいなくなる、ということが。この時期に帰国をすることはだいぶ前から決めていた。もうパリには帰る家もないのだけれど、私はまたすぐここに戻ってくるような気がしてならない。私が日本に戻って、もうここへ帰れないということは、治りきっていないカサブタをはがすようなもの・・・とでも言っておこうか・・・。

11日。旅の前に友人たちにはお別れを言ったけど、もう一度キャロリーヌには会いたかった。昨日荷物を取りに言った時も彼女は用事で家にはいなかったから。

Parisもう一つ、どうしても最後に映画館に行きたかった。ここは私にとって特別な場所だったから。学校の校舎にはなんの感慨もないけど、映画館にはお礼とお別れをしておきたかった。本当にたくさんの時間をここで過ごしたから。夕食の後、母とホテルに戻って部屋から見下ろせるモンパルナスのシネコンに向かった。最後に選んだのは「la fidelité」。3時間を越す大作であった。作品の長さを知らなかったので「2時間ほどしたら、あそこから戻ってくるよ」と心配性の母に説明しておいたため、余計に心配させてしまった。映画館を出るとすぐ、窓辺に母の姿を見つけた。大きく手を振ると、母も手を振る。不思議な気がした。あの窓の向こうが私の帰るべき所・・・。実家を出て9年が過ぎた今、私は次の行き先を見つけるまで実家に戻ることにした。だから何かこれは象徴的な行為のようにも思える・・・。

Cdg12日。午前中にホテルを出発。長かった3週間の旅とともに私のフランス滞在も終わろうとしている。今度、南仏に行けるのはいつだろう。たくさんの思い出と共にこれから始まる、暑い!日本の夏を乗り越えたいと思います。

fin

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