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08/05/1997

初めての南仏プロヴァンス / Mon premier voyage en Provence

le 4 mai 1997 パリ~アヴィニヨン~アプト~セニョン(泊)
朝5時半に家を出発。ギャール・ド・リヨン駅から6時57分のTGVに乗るためだ。楽しみにしていた南仏プロヴァンスへの旅が幕をあけた。南仏といえば数年前から日本でもそして世界的に人気の場所。車がない短期間の旅がたいへんなことは予想ができたが、数少ない列車やバス、それがないところでは歩くかタクシーしか私には方法がない。ともかく3泊分の素敵なお宿だけを予約して、あとは気ままに移動するだけ・・・。

まずはパリから南仏の玄関口アヴィニヨンへはTGVで約4時間。ドイツ人の団体旅行客に囲まれてうるさいのなんの・・・。朝早くてつらいから私はゆっくり眠りたいのに・・・。仕方ないので検札のあと、席を移動。そこから一眠りすると10時半にはもうアヴィニヨンであった。正確に言うとここはプロヴァンス地方ヴォクリューズ県の県庁所在地。何となく重たい天気。時々小雨が頬に当たる。まずは国鉄の駅の近くにあるバス・ターミナルで、アプト行きのバスの時間を確認したあと、アヴィニヨン探険に繰り出した。

この街はこの地方では十分大きな地方都市だが、観光客が訪れるいわゆる旧市街は今もほとんど完全な形で残っている城壁の中、その距離せいぜい2キロ四方、といったところだ。国鉄駅前にある立派なレピュブリック門をくぐると、道幅の広いレピュブリック大通りがまっすぐに伸びている。お腹が減って仕方がなかったので、その道沿いにあったファーストフード屋さんでさっそくハンバーガーをぱくついた。そのあとすぐに大時計広場に出る。ここはたくさんのカフェやレストランが集まっているにぎやかなところだ。今日は日曜日ということもあって朝市もついさっきまで出ていたようだ。まだ何店かは残っていた。

Pontdavignon_2そこから少し北上すると、宮殿広場に出る。そこにはガイドブックなどには必ず写真入りで載っているパレ・デ・パップ(教皇宮殿)とノートルダム・デ・ドーム教会が並んで立っている。この広場から城壁内を案内してくれるプチ・トラン(小さな観光用列車型バス)も出ている。そこからまた数百メートル北上すると、ローヌ門に辿り着く。そこをくぐるとこの街でもっとも有名な通称アヴィニヨン橋(正式名:サン・ベネゼ・シャトレ橋)に辿り着く。まるで♪~アヴィニヨン橋の上で踊ろうよ、輪になって踊ろうよ~~~の歌が聞こえてきそう。この橋の上を歩くのは有料・・・なので私はさらにロッシェ・デ・ドームという断崖の上(無料地帯)をめざした。さっきまでのうっとうしい天気とは打って変わって見事に晴れ渡った空と共に、もっとも高いところから見渡すアヴィニヨンの街は、地上で感じていた「何となく好かんなあ」から一転、雄大なローヌ川をはさんで遠くまで広がる緑の美しさに清々しさを感じた。美術館などをゆっくり見学する時間はなかったので、街角のカフェで休んだあと、私はバス・ターミナルに戻った。

15時発のアプト行きバスに乗る。バスの発車まで運転手のおじさんに明日の為に色々と訊ねておく。プロヴァンスには特有のアクセントがある。かなり印象的で強烈な訛りだ。映画「愛と宿命の泉」で聞き慣れた訛りが生で聞けたことにちょっと感動。例えば彼らは「ビアン(良い)」を「ビエン」と、「ラパン(うさぎ)」を「ラペン」と言う。訛りはきついが、人柄が穏やかだし(優しいし)、パリの人に比べるとゆっくり喋ってくれるので、私には分かりやすかった。パリの人たちはせっかちで私たち外国人のゆっくりとした口調を嫌うが、田舎の人たちはまず台詞が終わるまで待ってくれるし、そうなると話をするのが楽しくて、私はパリに居るときよりも積極的に話をしていたように思う。

さあ、ここアヴィニヨンから約1時間ちょっとで、アプトに到着。ここらはヴォクリューズ県の中でもリュベロンと呼ばれる地帯で、日本で言う国定公園に指定されている光あふれる丘陵地帯だ。アヴィニヨンからの国道100号線沿いにはリュベロンにある高台の集落がいくつも確認できた。アプトはこれらそれぞれの集落にアクセスする起点でもあり、小さい街ではあるけれども、他の集落群に比べると圧倒的に大きい。バスを降りて街の中心を目指して歩き始めると、公園でペタンクを楽しんでいた爺さん達がいっせいに振り向くので驚いた。パリではありえない事だからだ。最近では日本人の観光客も多いらしいが、彼らのほとんどは団体旅行か、そうでなければタクシーで移動するパターンがほとんどらしいので、こんなローカルバスから降り立ってうろうろしているアジア人、それも女がよほど珍しいと見える。だからといって彼らは全く意地悪ではない。道を訊ねたら親切に教えてくれるし、目が合えば気持ち良く挨拶してくれる。最近パリの生活(都会の暮らし)に飽きているので、こういう人との穏やかなふれあいや新鮮な空気がとてもうれしい。とにかく今や何処の地方都市に行ってもアジア人も含めて移民が多いし、生粋の、昔ながらの、フランスの素朴な暮らしが見たければ、こんな田舎へ行くしかないだろう。

この街には観光案内所があるけれど日曜日なので閉まっていて、タクシーの看板は見つけたけれど、しばらく待っても来ないので、街中で見つけた地図の絵を頼りに、これから向かうセニョン村への検討を付けた。ちょうどその広場からセニョン大通りと言う名の舗装道が高台の集落まで続いているようだった。その道の入り口で立ち話をしているおじサンたちに確認してその道を登りはじめる。「セニョンまで4キロだよ」とオヤジは気軽に言ったが、どうみたってその集落までは10キロはありそうだった。ともかくもう歩き始めてしまったので引き返すことはできない。

Saignon それ以後すれ違う人もなくただ車だけが楽々と私を追い越していく。フランスでは夕方4時5時の太陽がいちばんきつい。天気はいいのはいいことなのだが、照りつける太陽の下、歩き続けること2時間弱、ようやくセニョン村の境界線を越えた。セニョンはとりたてて見るものもない(しいて探せば12世紀の小さな教会と白浜にある三段壁みたいな断崖だけ)小さな村で、フランスで買った「プロヴァンスの魅力」という本でようやく1ページ紹介されているくらいだ。が、ここにはとても有名なオーベルジュ(ホテルとは違うカテゴリー。日本語で言うと旅館や旅篭といった感じだが、田舎度具合からいうと旅篭の方がしっくりくる)があるのだ。

私はここの「青の部屋」に泊まりたくてわざわざここまでやってきた。人気の部屋なので早めに予約をしておいた。この部屋には見晴らしの良いテラスがあり、文字通り何もかもがブルーで統一されている。青だけでなく、赤や白、草花の名前の部屋などがあり、どれ一つとして間取りが同じ部屋はない。この青の部屋の魅力は何といってもこのテラスにあるが、青にこだわったインテリアも女心をくすぐる。ベッドカバーもクッションも、テラスのテーブルも壁に掛かっているマチスみたいな絵も、みーんなブルー。驚いたのは棚にさり気なく置いてある靴磨きセットの靴クリームも青だったことだ。荷物を置いて風景を堪能した後、夕食までの時間、散歩に出かけた。こういった田舎の宿ではたいがい予約時にドゥミ・パンシオン(夕食つき)の値段を提示してくる。もちろんそこで食事をするかしないかはそれぞれの自由だが、ここには他に食事が出来るところなどないので、私はもちろんお願いしておいた。しかし夕食と朝食を取ったところで、都市に比べたら格段の安さ。おいしい料理を優しいもてなしの中で頂き、10時半ごろには限りない満足と心地よい疲労感と共に眠りにおちていった・・・。

le 5 mai 1997 セニョン~ボニウ~ラコスト~ボニウ(泊)
しかし死んだように熟睡して約3時間後、ギイギイと気持ちの悪い音に目が覚めた。部屋を真っ暗にするのが嫌いなので洗面室の方の明かりを付けたままにして、寝室との間のドアを少し開けておいたのだが、隙間風のせいでそのドアがギイギイと音をたてていたのだった。そのドアをきっちり閉め直して、もう一度眠ると今度はすごい風の音で叩き起こされた。カーテンをあけて外を見たところで、真っ暗すぎて何も見えなかったが、嵐だった。

パリの生活についてでもそうだが、私は綺麗事だけを語るのは好きではない。たとえ私が旅行者であってもそこに生きる人々の生活を様々な側面から知りたい・・・と私はいつも考えている。だから今回の旅ではいい事ばっかり書いているかも知れないけれど、私は私なりに色々なことを垣間見ているつもりでいる。自然の恩恵を受けながら生活をするということは、自然の脅威と背中合わせだということを、もっともいい時期にやってきてヴァカンスを楽しみ、後は便利な都市に住む観光客にはなかなか想像できない。価格が安いということは、そこで生活している人たちの収入のレヴェルも低いということ。そんな中で元社会人でもフランス人からはずいぶん若く見られる私が、お金をぱっぱと使っていくことを彼らはどう思うのだろう・・・と時々思ったりもする。

ともかく夜が開けて大雨の音を聞きながら朝食を取った。夕べの夕食の時「明日の朝食は部屋でとりたいんです。だってテラスがとても素敵だから・・・」とお願いした私の為に、すでに朝食がかわいいお盆の上に用意されていた。「8時半に取りにいらっしゃい」とご主人は言ってくれたが、こんな嵐の中テラスで食べるなんてとても無理。皆に交じって食堂で静かに朝食。ここで出合ったのが、激旨のはちみつ。蜂蜜はこの地方の特産物なのだが、もう一つの特産物ラヴェンダーとの合作「ル・ミエル・オ・ラヴォンド」は普通の蜂蜜と(当たり前だが)風味が違い、ちょっと硬めで、とても田舎臭い香。とてもおいしかった。

思わぬ嵐に遭い、仕方がないので精算の際タクシーを呼んでもらった。次の目的地はボニウ。フランスでも政界人、芸能人の間で別荘を持つのが流行っている所。昨日までは一度アプトに出てそこからボニウ・ギャールという所までバスで行き、そこからさらにホテルまで数キロ徒歩で行くしかないかなあ・・・と漠然と予定を立てていたのだが、タクシーのオジさんに「ボニウまでどれくらいかかる?」聞くと「時間かい?それともお金かい?」と返ってきた。私もニヤニヤしながら「お金」と答える。その時のオジさんの笑顔がとても素敵だったので、私はすぐにこのオジさんと打ちとけてしまった。「120Fくらいだな」と言う。乗る継ぎの煩わしさと、その都度かかる金額を考えると、むしろ安いくらいなので「じゃあボニウまでお願いします」と急遽行き先を変更した。雨の中、色んな話をしながら車は行く。山間の車道をくねくね。オジさんはマルセイユ(南仏の大都市で有数の港町)生まれ。でも都会の暮らしがいやでボニウに住んでもう長いと言う。時々真っすぐの道になるとハンドルから手を放して振り向いて話をする。少々びびりながらもお話が楽しい。フランスの話、日本の話・・・そうこうしていているうちにボニウ村に着いてしまった。

「Je vous laisse ici.(ここで降ろすよ) この階段を登るとすばらしい景色が楽しめるよ。ぜひ行ってみなさい」とオジさんが言った。「ありがとう」と別れを告げた後、そこが予約していたホテルの前であることがわかった。とにかく強くなってきた雨から逃げるようにホテルに駆け込んだ。まだ朝の11時前であった。普通チェック・インには早すぎるのだが、気持ち良く部屋に通してくれた。今日のお宿も十分に安いが部屋も広々していて、テラス付きの部屋をリクエストしておいたので、今日も見晴らしの良いテラス付き。でもあいにくの大雨なので、テラスに出るのも今はちょっと難しい。荷物を解きながら、ため息をつきながら、それでも私は心のどこかでこの雨が終わることを信じていた。まず私は晴女であるし、フランスの雨は日本の雨のように一日降り続くことは滅多にない。するとやはり約1時間後には雨が止むどころか、かんかん照りになってしまった。

Bonnieux1_1私はとにかくカメラを持って部屋を飛びだした。オジさんの薦めに従い、まずはいちばん高いところへ。崩れかけた階段を登りつめると、そこにはもはや廃墟になってしまった古い教会があるのみなのだが、雨に打たれたばかりの緑が、照りつける太陽の光を受けてますます美しく輝いている。下方に見える田畑は、それぞれの色が微妙にちがってまるで緑を基調といたパッチワークのようだし、葡萄やオリーブの畑では小さい木がお行儀よく並んでいてとてもかわいらしい。標高425メートルのここからはご近所の集落がたくさん見渡せる。もっとも近いのはラコストという集落。ここのシンボルとなっているサド侯爵城もなんとなく形が確認できた。公式発表のこの街の人口1433人だって信じられないくらいに静かで、昨夜の嵐の残り風だけが耳元でピュウピュウと鳴っている。この集落から少し離れた辺りにぽつぽつと見える大きな家は、ほとんどが都会の金持ちの別荘だ。それは絵の具を溶かしたみたいなブルーのプールで容易にわかる。この街は今やフランスでもっともプール密度の高い地域だそうだ。私のお宿、ル・セザールにあるカフェはシーズンともなると、ミニミニ社交界と化すらしいが、本当なのだろうか???ここの景色を堪能した後、人より多そうな猫さんたちを追いかけまわしながら、ホテルの前まで戻ってきた。ホテルの周辺には観光客を相手にしたような店がいくつかあって、ほとんどそのすべてをひやかして見て歩いた。何といってもこのリュベロンはラヴェンダーをはじめとするハーブとハチミツなんだなあ。私はラヴェンターの紫の色に惹かれて、アンティークな感じのビンに入ったオー・ド・トワレを一つ買ってしまった。そして昼食にありついた。

Lacoste1昼食後、今回はあきらめようと思っていたラコストに結局行くことにした。我ながら貧乏性は治らないなあ、と思う。やはりそこに見えているのに行かないなんて・・・となってしまうわけだ。天気が心配だったが、とにかくボニウを出発。3時であった。ボニウを出るときには方向を示す看板があった。「LACOSTE6km」これまたどう見たって10キロはあるやろ~って感じの距離だった。ただいつ見てもラコストはそこにあるので、とにかくそっちへ向かって行けばいいわけだから。人なんてほとんど通らない。しかし通ったときは道を訊ねた。夕方の最も暑い時間にまた歩いている。それも昨日同様ヒールが5cmもある革靴で・・・(これしかない)。途中でうんざりしたが、引き返すにも引き返せず、タクシーも、バスもないので、行くしかないのだ。畑や私有地のせいでいったんグッと近づいたラコストが遠ざかっていく・・・とほほ・・・の繰り返しで約2時間半。ようやくラコストのある高台への入り口にあたる1本道に出た。こうなるとがぜん元気が出てくる。300メートル位の高さまで登ったところで、ようやくラコスト村の看板。思わず「ヤッター」と叫んでしまうほど嬉しかった。そこから一気にサド侯爵城の廃墟まで登る。このサド・マゾの語源となったサド侯爵(マルキ・ド・サド)は1700年代に祖父からの遺産相続でこの城を受け継いだ・・・と地元のパンフには書いてある。この城で彼は数々の悪事を働いていたのだなあ・・・と思うと少々鳥肌ものである。なんだか娘達の霊が出てきたら恐いもんね。

この廃城のすぐ下に、岩を掘っただけのような、彫刻家のアトリエ兼展示場があった。アトリエの主人にあいさつして作品を眺めていると「Vous êtes japonaise?(日本人ですか)」と聞いてくる。そうだ、と答えると私に「ENTREZ LIBRE(御自由にお入り下さい)」と日本語で書いてほしいという。どうやらこんなところにも日本人は来ているらしいのだ。最初は石にボールペンで・・・と言われたが、それはとても無理で、すると今度絵画用の極細筆でバルサ板に・・・と言う。書道二段の私の賞状が泣くくらい汚い字になったけど、なんか私の形跡が残せて嬉しかった。それがきっかけでこの彫刻家のオジさんとも話をした。このロベール・ブランさんが扱っている石はこの地方で取れる石灰岩。ここの石はパリでも19世紀オスマンによる都市計画の際大いに利用されたそうだ。なにしろ軟らかいので可塑性がある。彼はほとんど毎日、一日中、この穴蔵にこもって仕事をしているそうだ。今の彼の作品は「卵とそのパック」・・・みたいなおもしろいものが多いが、修復家でもあり、学校の先生でもある彼は、この地方でこの石を扱う彫刻家としては最後の一人になったそうだ。彼の写真もパチリ。今度、彼とこのラコスト村について記事を書こうとおもっている。

人口360人のラコスト村にもちろんタクシー乗り場なんてものはない。疲れ切っているので、もちろん歩いてなんて帰れない。そこでお土産物屋のおばちゃんに相談した。すると個人タクシーの電話番号を教えてくれたので、辛うじてあった電話ボックスから電話をかけると、タクシー・ピノーさんはすぐにやってきてくれた。ピノーさんは私がフランス語で話し始めると喜んで話の相手をしてくれた。私は今日の苦労を滔々と語ったのだ。しかしそんなに長く話をする時間はなかった。私の2時間半の苦労はタクシーではたった10分だったからだ。ホテル・ル・セザ-ルの前で降ろしてもらって、今日の予定は終了。後はホテルご自慢の大展望レストランで夕食をとる。さっきまでいたラコスト村がよく見える。やがて陽が暮れてきて、ラコスト村にも一つ、二つ・・・と灯りがともり始めた。ロベ-ルさんをはじめとして、これら小さな村に生活する人々の暮らしを思う。このような環境に「生きる」という想像しても想像しきれない人生を思いながら今日は終わり・・・。
おまけ:夜寝る前にふとテラスに出てみた。すると生まれて初めて見るかのような満天の星空。手を伸ばせば届きそうに星が近い。数だってあれは尋常じゃあないよ。感動!

le 6 mai 1997 ボニウ~アプト~アヴィニヨン~アルル(泊)
今日も朝から大雨である。しかし3日目ともなると何だか確信に近いものがある。きっと午後には晴るだろう・・・と。ホテルのフロントでアプトまでのタクシーを呼んでもらう。今日の運転手さんは、ちょっと太めのオバさんだ。「アプトまでお願いします」と言うと、オバさんは笑顔で言う。「あなたが昨日ラコストにいった人ね」えええ??「どうして知ってるの~?」「昨日あなたの電話を受けたのが私で、ボニウまで乗せたのが私の主人よ」・・・なるほどである。陽気なピノー夫人との会話も弾んで、アプトまでの15分ほどのドライブもあっという間に終わってしまった。ピノー夫妻はずっとパリ近郊に住んでいたそうだが、10年ほど前にボニウに越してきたそうだ。パリのこと、旱魃のこと、リュベロンのこと、語学のこと・・・等々話しているうちにもうアプトの観光案内所の前だった。ピノー夫人にお礼を言ってタクシーを降りた。楽しい時間をどうもありがとう(料金の端数までまけてくれた)。

アヴィニヨン行きのバスが出るまで、まだかなりの時間があったので、雨降るアプトの見学をする。今日は最初ここに降り立った日と違って平日なので、商店もお土産物屋さんも元気に営業。この街は人口11560人のここら辺りではかなり大きな街だ。私の好きなプロヴァンス柄の布を売る店も沢山あり、ウィンドーを眺めているのも楽しい。お気にいりのラヴェンダー・ハチミツも見付けたので、重いけれども買っておいた。これで我が家でもプロヴァンスの朝を再現だ!!!・・・と言うのも今日今から向かうアルルは今までいたヴォクリューズ県から近いもののブーシュ・デュ・ローヌ県の所属になってしまい、リュベロンの特産物が手に入るかどうかちょっと不安だったからだ。昼食にクルミパンを買い込んでバスに乗り込む。アプトからまずアヴィニヨンへ、約50キロ40Fの旅である。アヴィニヨンからは国鉄でアルルへと向かうことにする。この間は20分35Fの旅。あ、ちなみに午後はやはりかんかん照りです。

Femmedarlesアルルの国鉄の駅から雄大なローヌ川の流れに沿って歩くと、5分程で旧市街に到着する。アルルは人口5万人の比較的大きな街だが、それでも旧市街はほんの小さくて半日もあれば見おわってしまうような小さな街だ。やがてローマ時代の遺跡であるコンスタンティヌスの共同浴場が見えてくる。予約しているホテルはそのすぐ横にある。・・・しかし「アルル」という街の名前の響きには何か緊張感を感じるのはどうしてだろう。ともかく長年訪れたかった街の一つである。この名前にはなんだか心を引っ掻かれるような何かがある。「アルルの女」の音楽がもたらす影響なのか、ヴァン・ゴッグ(ヴァン・ゴッホ)の病のせいなのか・・・。実際街を歩いてみてもそれが何かはわからないけど、2千年という遠い時の彼方で栄華を終えた物悲しさは、いくら観光客が押し寄せようとも、そのまま残っているような気がする。そういう空気が子供の頃から「廃墟」好きの私に何か働きかけているのかしらね。

Arles1ところで予約しておいたアルルのホテルは、満天の星空も、見渡しの良いテラスもないが、ともかくこの歴史の古い街にふさわしい質の高いホテルである。予算は今回の旅行では一番高いが、しかしパリの普通のホテルに比べたら安いくらいなので、驚きだ。レセプションの横の床は9㎡ほどガラスで出来ているのだが、そこから7メートル下に紀元前50年の遺跡がのぞける。さらにその下にも紀元前4世紀頃の遺跡も発見されたとのこと。このホテルは横にある大浴場の遺跡と同様に、その以前はコンスタンティヌス宮殿の一部だったって。例えば45号室にはその頃の壁が実際に残っていたりするそうだ。お得な値段(約8千円~)で中世の姫の気分にひたれるよ。素晴らしい歴史的建築物に、センスのいいインテリア。皆さんに推薦のホテル・ダルラタンでした。ちなみに素晴らしいホテルなので観光関係の賞でグランプリをとっています。ずっとホテルの部屋にいたいくらいだが、ともかく観光に出かける。古代劇場(は、もはやボロボロ)や円形競技場(こちらは保存状態予良し、今でも闘牛に使われている)などをじっくり見学。(実は闘牛が見たかったのだけど、週末だけなんだって・・・)円形競技場のもっとも高いところからはアルルが見渡せてとても綺麗です。あー、晴れてよかった。 今日の予定はこれだけ。街中を歩いてあちこち覗きながら、お宿へ帰ります。

le 7 mai 1997 アルル~(タラスコン)~ニーム~パリ(帰宅)
今日は朝から快晴である。ともかく今回の旅行では雨には降られたけれど、後で必ず晴れてくれたので、どこも最高の表情を見ることが出来てよかった・・・。

昨日ほとんどアルルも見尽くしたので、突然ニームに寄って行こうと思い立つ。本当は時間が余ったらニームとアヴィニヨンの中間にあるフランスで最も有名なローマ時代の水道橋を見たかったのだが交通機関の問題でこれは断念。というわけでニームを選んだ。朝の10時ごろに国鉄アルル駅でニーム行きの切符を買ったが、直接ニームへ行く列車は13時までなく、タラスコンというところまではバス、そしてそこからニーム行きの列車に乗り継ぐ便も、12時までない。愕然としながら、バス・ターミナルで陽なたぼっこをしながら手紙を書いたり、本を読んだりたりしていると、日本人のおじさんが話しかけてきた。この人、アルルを中心に2ヵ月の予定でフランスに滞在している画家だそうで、明日のマルセイユ行きの時間を見にきたそうだ。少し話をしていて私がパリにいる学生だと分かると色々パリの生活や美術の学校について訊ねてきた。と、いうのもパリで彫金の勉強したいという教え子をトゥールーズ(南西の都市)の語学学校に送り込んできたばかりなのだそうだ。彼自身はモードのデザイナーだったそうだ。店を持って忙しく仕事していたそうだが、ずっと絵をやりたくて10年ほど前にやめてしまったそうだ。今は絵を描きながら、(多分)教えながら、東京のプランタンで年に一度個展を開いていると言っていた。持っていたスケッチブックの絵はどれも優しい絵だった。夕焼けを描きたいそうだ。まだ春のアルルでは物足りなく、あしたマルセイユに足を伸ばしてみるそうだ。このG氏の出現で、バスを待つ時間もあっという間に過ぎてしまった。またパリで会いましょう・・・と手を振った。

タラスコンを経由してようやくニームに到着。観光案内所で色々と資料をもらう。ニームもアルル同様ローマ時代に栄えた地方都市だが、最近では人気の現代建築家を起用しての都市計画には注目が集まっている。観光局でも建築に関する立派な冊子を用意していた。しかし街や場所とも相性があるもので、せっかく来たけれども私にはここも(アヴィニヨン同様)・・・という感じがしてあまり気が乗らない。古代ローマの遺跡としては、街の中心に円形競技場と神殿(メゾン・カレ)が残っている。メゾン・カレの旧に対抗して真横にそびえ立つノーマン・フォスター作のアート・センターを見学した後、街はずれにある集合住宅群を見にいった。ここにはジャン・ヌーベルの有名な「NEMAUSUS」という集合住宅がある。しかし辿り着いて、驚いた。あの雑誌の中で見た輝かしさはどこへ行ったのだろうか?もはや沈没寸前の船のような状態であった。低所得者用アパートであるため予算が十分でないことは明らかだが、それでもボフィールのような例もある。彼も低予算集合住宅をたくさん手懸けているが、見た目には重厚な建築を作っている。大きく「LOUER (賃貸者募集)」の看板がかかっているが、ヒッピーのたまり場みたいなこんな所に誰が越したいだろうか?・・・そんなことを考えながらファインダーを覗いていると、子供が3人駆け寄ってくるのが見えた。「ボンジュール、あなたはフランス人なの?」と聞かれて「いいえ、私は日本人よ」と答える。「どうしてフランス語を話すの?」「勉強しているからよ」「ふーん、この建物見にきたの?」「そう」「どう?好き?」「う~ん、あんまり、こんなに風になってしまって残念ね」・・・今度は私が質問した。「ここに住んでるの?」「うん」「この建物に満足してる?」「ウーン、サ・ヴァ、メ・・・、例えばみんなで一緒に遊んだり、宿題をやるスペースが欲しいよね?(他の二人もうんうん)」・・・

また現代建築のエゴを強く感じた。住み手が幸せでない建築。建築家同志で誉めあっている滑稽な世界。いくら低予算だといっても、こんな数年でダメになるものを作っていいはずがない。私は子供たちに「どうやってお金を稼いだらいいと思う?」と聞かれて、言葉を失った。「ジュ・ヌ・セ・パ(わかんない)」子供たちは無邪気にお互いのボロ着をけなしあっている。「乞食みたい」「お前の方が乞食だよ」・・・きまぐれな子供たちは私に飽きると、またどこかへ行ってしまった。「アレ・オルヴワール!」と声をかけると、走りながら振り返り手を振って去っていった。フランスではどの都市も郊外には様々な問題が山積みである。がんばって勉強してね、子供たち・・・。私はさらにバスに乗り、日本の建築家・黒川紀章の集合住宅を見にいった。そこも状況は同じであった。ここは地上階にテナント用のスペースがあるが、一度も使われた形跡なく、たくさんある住居部分もほんの数世帯しか入っていない。なんだか憂欝な気分で国鉄駅を通るバスに乗り込んだ。もうこの街(ニーム)には一生来ないだろうなあ・・・。もはや建築も悠久の芸術作品などではなく、使い捨ての時代なのだろうか・・・。

Petitd夕方、ニームからパリへのTGVに乗る。こうして4日間の旅も終わった。パリに帰る間、集まった資料を眺めながら、今回の旅を思い返す。そして、いつになるかわからない次回の旅への期待を膨らませた。今度はぜひリュベロンの集落を全部回りたい。変わらないことって難しい。いつもそこにあること、なくならないで、変わらないで。おそらくリュベロンの集落たちも少しずつ少しずつ目に見えない速度で風化していくだろうけど、ローマ時代の遺跡のように私たちの想像できない時間を生き抜くことは確かなはず。                  

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