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31/01/1997

フランス留学記 1997年1月

■1997.1.17(金)
一時期の大寒波も今は少し落ち着いて、今日は久しぶりの雨が降った。大寒波の真っ最中などはエッフェル塔近くの大噴水が凍ってしまってスケートリンクになってしまったり・・・と、とにかく街中の水分がすべて凍り付いてしまっていた。
今日私は初めてエコール・ド・ルーブル(ルーブル美術学校)という学校の講義に初参加した。この学校は国立の美術史専門学校で大学と同じような位置にある学校なのだが、ルーブル美術館の中にあり、聴講の制度や事務局の仕事が非常にしっかりしている、フランスではなかなか珍しい?学校なのだ。私は来年のことを考えて、遅ればせながら最近聴講生として登録したばかりだ。本科の若い学生に交ざって白髪のおじいちゃん、おばあちゃん聴講生も真面目にノートを取っている。興味深い授業が多いが、今回は2つだけ受講することにした。一つは大講義室での講義「西洋建築史(19世紀末~20世紀中ごろまで)」、もう一つは実際に美術館の作品の前に出向き説明を受けるというもので「家具と芸術品(17世紀~アール・ヌーヴォーまで)」を選んだ。これこそフランスならではの贅沢な講義のような気がする。もちろん授業は専門用語ばかりで私にはとても難しい・・・が興味のあることなので眠たくなったりはしない。私も少しは進歩した?と思う(授業中に眠らないという点・・・)。

■1997.1.19(日)
今日は一日雨。昨日届いていたメールで一昨日の17日が地震の日だったと思い出した。思い出した途端に地震の夢を見た。あの日の朝の何とも表現できない不安と恐怖とともに揺れとずたずたの風景、匂い、音、あちこちであがる火の手・・・あの一連の経験はある意味では良い経験だったが、やはり出来ることならあのような出来事には誰も遭わないほうがいいに決まっている。地震だけではない。ここにいると日本にいるときよりも世界の動きが近くに感じられる。日々各地で起きる爆弾テロ、内戦、虐殺・・・。ぼろぼろに傷ついた死体が映し出される度に、思うことはたくさんある。ところで、あの時みんな必死で買い求めていた非常時用バッグと懐中電灯は、今もちゃんと枕元にあるのでしょうか?
こちらの報道番組を見ていて、日本のそれと違う点。それはいくつかあるのだが、もっとも興味深いことは、普段の車の事故や殺人事件などで人が死んでも、それはほとんど報道されない。例えば飛行機が墜落しても、爆弾テロが起きても、何人死亡、何人負傷者・・・とキャスターが語るだけである。日本のように殺された人の名前や殺された場所や状態が話されたり、死亡者のリストがテロップで出たり、個人の過失による車の死亡事故が一々報道されることはまずない。私は個人的に、このことを高く評価しているのだが、これはおそらくフランス式プライヴァシーの保護ではないだろうか。誰も自分がどんな風に死んだかを万人に知られたくはないはず。しかし事件が社会的に大きな意味を持つとき、例えば爆弾テロ事件などでは無名の死体が食事の時間であろうがなんであろうがごろごろと映し出されるし、凶悪な事件や猟奇的な事件(最近のベルギーでの幼児性愛者の事件など)では犯人の顔は公表される。それから街頭インタビュー。日本では質問に答えてくれた人の名前が出ることはほとんどなく匿名性が重んじられているが、反対にフランスでは発言するときには必ず職業と名前が必ずテロップで出る。浮浪者のおじさんでもSDF(サン・ドミシル・フィクス/住所不定者という意味)・フィリップとか、看護婦・フランソワーズとか、秘書・シルヴィーとか、小学校4年生・ステファン・・・と言った具合にどんな発言にも責任がついて回るのである。物言う事が重要視されているお国柄を表していて、なかなかおもしろい。これらは両国の思想や教育の違いとも言えるでしょうか???

■1997.1.26(日)
最近はぐずついた天気が続いていた。公害は少しはおさまったようだが、来月リヨンを旅するつもりなので、このニュースは少し気になっている。とは言っても、毎日呼吸しているパリがこんなにひどいのだから、気にしても始まらないが・・・。
月曜日にピーター・グリーナウェイの「THE PILLOW BOOK」を見た。まず日本語が話せないヴィヴィアン・ウーがナギ子を演じているが、私は気に入らなかった。とにかく彼の映画はいつも腑に落ちない。今回の映画が日本的美意識の序章だとするならば、アジア文化の混合(正確でない日本様式の表現)は気にかかった。私が日本で日本人の中でこの映画を見るのと、西洋人の批評を読み、西洋人の中でこの映画を見るのには、大きな違いがある。日本ではどう評価されているのだろう???とても興味がある。
年末にモット・ピッケの駅前にあるバーガーキングが火事になって、それ以来閉店していた。今再開を目指して工事中・・・と書かれたままだったが、それを取り囲むすべての建物が今解体中。けっこう大規模な再開発が行なわれそうである。当分続くんだろうなあ。ちょっと淋しい。
今週フランス・ラングのクラスは4人。夜のクラスは人数が少なくていい。クラスと言うよりはグループレッスン。ミッシェル先生は陽気なオバチャンタイプ。気の良い人だ。フランソワーズとはだんだんお互いに判り合えてきて、とてもやりやすくなった。勘のいい優秀な先生だと今は思うし、大好きになった。
そんなこんなで学校訪問に行ったり、届いた資料を検討したりと、一週間はあっと言う間に過ぎていく・・・。
昨日土曜日は私にしては珍しくランデ・ヴーが3つも入っていた。まずシェナンと昼食を取る。そのあとマコト氏と待ちあわせてシェナンが近々購入予定のコンピューターをギャール・ド・リヨンの近くの大型パソコンショップに見に行った。その後は、年末に知り合ったジャン=フランソワ君とお気にカフェで2時間ばかりおしゃべりを楽しんだ。 今日はフランス語検定2級の2次試験(口頭試験)だった。手ごたえはばっちり。結果は1ヵ月後。楽しみ楽しみ。

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