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31/12/1996

フランス留学記 1996年12月

■1996.12.6(金)
毎日相変わらずの雨とドンヨリとしたお天気、ヨーロッパの人が夏のヴァカンスにかける意気込みがわかるような気がする。
3日火曜日のポール・ロワイヤル駅の爆弾テロは久しぶりにパリの街を揺らした。10月、母達が日本に帰ったあと、首相アラン・ジュペが知事を兼任しているボルドー市役所がテロに遭ってから(テロの目的は違うが・・・)何やら雲行きは怪しかったが、最近のクリスマス気分を吹き飛ばす嫌な出来事だった。しかしフランスのテロ対策の徹底ぶりには、本当に舌をまく。事件が発生したのは3日の18時頃。シラクはそのあとすぐにエリゼ宮で声明を発表し、アラン・ジュペは現場を視察。翌日にはすべてのメトロに安全対策への協力を呼び掛けるポスターやステッカーがはられ、駅や路上のごみ箱には再びスチールの蓋が施された。そして警官と軍隊の3人1組監視隊が街中に配置された。これだけしても昨年は7月25日の爆弾テロ以来4~5件続いた訳だから気は抜けない。時々様子の変な人を見かけると、正直言ってドキっとする。ヨーロッパには過激な組織がたくさんあって、いつもどこかで爆弾テロが起こっている・・・というのは決して大げさな話ではない。・・・とは言っても、心配してもしょうがなく、私の日常生活もパリの日常生活も変わる訳ではない。
そう、今日6日は私が巴里に上陸して1周年の記念日でした。

■1996.12.13(金)
近ごろのパリは、最高気温1度とか2度とかいう日が続いている。もちろん耐えられない寒さではないが、日本の冬とは確実に寒さの種類の違いを感じる。石の街独特の冷たさ・・・。
先週の土曜日はフランス・ラングで仲良くなったスイス人のカリーヌの帰国を東駅まで見送りに行き、日曜日は何もせずに家でごろごろ。この日の最高気温はマイナス1度だったとか・・・。先週から知り合いの女の子たちが一週間の予定で来ていたので、月曜日は学食で一緒に昼食を取り、火曜日はシェンゼリゼ通りのムール貝で有名なシェ・レオン(パリ中にチェーン店のある有名なお店)で、夕食を一緒に楽しんだ。この日はなんと私より若い二人がごちそうをしてくれた。どうもありがとう、ご馳走様!その火曜日の夜、授業がいつもより長引き、あわててメトロに乗り込んだ。混んでいない車両で、私の腰掛けていたシートの横にオヤジが座ってきたのだが、なんと!!!私のオシリを触ってくるではないか!!!慌てて隣のオヤジを見ると、色気づいた顔で私を見ているので、私はただちに席を立った。なんか色気づいた顔で見つめるだけ、日本のそっぽむいたチカンより、可愛げがあるように思うのは私だけでしょうか・・・。
水曜日の午後は「個人的に話を聞きましょう・・・」と言ってくれたボザール内にある建築学校(エコール・ダルシテクチュール・パリ・ラ・セーヌ/国立の5年制)にマダム・ガット・ジョンティを訪ねた。彼女の話によると、私が来年この学校の3年か4年に編入することには何の問題もない、ということだった。もちろん私が日本で建築学科をすでに卒業しているからである。まったく光栄な話であるが、ただ私の持っている計画とずいぶん隔たりがある。なぜならこの学校はいわゆる私が出たような大学なので理論よりは共同作業などのアトリエでのプログラムに重点をおいている。もう建築の実践の世界で生きていくわけではないので、いまさら・・・って感じで気が重い。他に私が希望している歴史専門の国立学校(エコール・デュ・ルーヴル)があるのだが、そこは3年・1年・2年の6年制なのだが、入るのはコンクールを突破しないといけない。フランス人と対等に戦って勝ち抜けるほど私のフランス語は素晴らしくない。そんなこんなで学校探しは大学も含めて難航しそうだ。とにかく年末のクリスマス休暇が終わってから真剣に考えないとなあ・・・。
今日は午後ヒトコちゃんと一緒に昼食を取った。彼女は今日の夜7時半のJAL便で1ヶ月のヴァカンスを過ごすために帰国。彼女とはまだたった1ヵ月のつきあいなのに、不思議。素直な感性ですくすく育ってきた彼女は本当にいい子。彼女は今や私の大切な友達になった。
夜の学校はとても気さくな連中ばかりで楽しかったのだが、クリスマス休暇でけっこうみんなばらばらになってしまう。スペインのコルドバ出身のクリストバルはパリに残って企業研修をするのだが、フランス・ラングは来週でおわり。ベルギーのいたずらっ子(とてもハンサム)マルタンは年明けからニース校に転校。スイス人のシュテファンも来週いっぱい。韓国人のミッキー(あだ名)は年明けそうそう国に帰ってしまう。デンマーク人のクラウスは1月いっぱい。彼もパリには残るが、2月からヴェルサイユの商業学校に行くらしい。個性たっぷりのスイス人女性クラウディアは???彼女はフランソワーズと反りが合わず最近授業を休みがち。そうそう、昨日フランス・ラングのドアをあけたとたんに「何だか知った顔だなあ・・・」と思った日本人がいた。お互いに顔を見つめること数秒。「ああああ」彼女は3月に私を取材しにきた井上さんであった。「何してるんですか~?また出張ですか?」と私。「今回はプライベートに1週間ここの授業を受けに来てたの」と彼女。私のことを探して学校の事務局で私の連絡先を訊ねていたらしいが、学校のコンピューターに私の新しい住所が登録されてなかったために、今まで会えなかったわけだ。私が載るらしい冊子は年明けになるらしく「必ず送りますからね」とのこと。懐かしの3月の頃のわたしである。
さて明日は、いよいよベアトリスがパリに到着する。私の自慢のコメルス通りにホテルを予約してある。きっとこのイルミネーション気に入ってくれるはず。昼はマコト氏の1日展示をパレ・ド・トーキョーのパリ市立近代美術館に見にいく。マコト氏にとってもチャンスではないだろうか。タイトルは「ユンヌ・パルティ・ドゥ・サ・ヴィ・(彼の生活の一部分)」

■1996.12.29(日)
クリスマスも終わり、日本は完全にお正月気分の頃だろうが、ヨーロッパはこのクリスマスをだらだらとずーっと年明けまで引きずっていくのだ。クリスマス直前に行ったブリュッセルは、1泊2日オルタ(私の好きなアール・ヌーヴォーの大建築家)巡りの旅となった。まだ少し見残した作品群はあるのだが、とりあえず見たいものは見た。・・・が、とにかく頬と鼻が凍傷になりそうなくらい寒かった。そのころからヨーロッパを襲っている大寒波は今も続いている。毎日のトップニュースは寒波のニュース。モスクワがマイナス27度だとか、ポーランドがマイナス35度だとか・・・「こんなにひどいところもあるのだから、みなさんフランスの寒さを乗り越えましょう!」という感じ。最近のパリは最高気温がマイナス4度とか5度とか。クリスマスに訪れたベアトリスの実家、ディジョンに近いドールはマイナス10度であった。外に出ることが億劫になるが、大いにクリスマス休暇を大いに楽しんでいる私である。
年末はとかく色々な行事であっという間に過ぎてしまうものだが、今月は本当に忙しく過ぎていった。15日(日)は前日にパリに到着したベアトリスとせいちゃん、その母きんさんと一緒に、秋に引っ越しをしたばかりのベアトリスの姉、ファビエンヌ邸を訪れた。彼女達がベルビルに住んでいた頃に会ってから、もう2年以上の月日が過ぎてしまった。今は新しい家族(次男ユリス・1才)が増えて長男パブロも大きくなって(6才)、旦那様ジャン・ピエールと4人で20区のペール・ラシューズ墓地の近くに住んでいる。皆で昼食を取り、夕方私は日程が変更になったマコト君の展示を見に、パレ・ド・トーキョーの近代美術館に出かけた。翌日は突然ヴァカンスでやってきた元・同僚Kさんと一緒に昼食を取った。夜はベアトリス一行とバスティーユの有名ブラッスリーで夕食。その後、我が家にやってきて夜中の2時ごろまで話し込んだ。久しぶりにゆっくり話せたので本当に楽しかった。
20日(金)はクリスマス休暇の最後の授業。21・22日はブリュッセルでオルタ三昧。22日にはシェナンの弟2人が1週間のヴァカンスのためパリに到着。23日は翌日のマコト家の誕生日会・兼・クリスマス会に出席できないので、あいさつがてらプレお祝い。でも夕食をご馳走してもらったのは私たち客だけど・・・。この夜はカイユ(ウズラの赤ワイン煮)でした。
さて24日から26日まで2泊3日で楽しみにしていたベアの実家、ジブドー家でのクリスマスである。友達を何人でも連れておいで・・・ってことだったので、お言葉に甘えて私達日本組みは3人。パリ・リヨン駅からブルザンソン行きのTGVに乗り1H40で1つめの駅ディジョンに到着。ベアの実家へは次の2つめの駅ドール・ヴィル(パリから2H10)で降りる。ベアとお父さんが駅まで迎えに来てくれて、車で家へと向かう。延々と続く畑、大地を走りドール駅から15分で目的のさらに小さな街に到着。教会兼役場、その裏には郵便局、そしてそれらを取り巻いて閉まっているがたった1件だがカフェ、大切なブランジュリー(パン屋)もあり、ジブドー家の前は一応村の中心にある!!!ただ日常的な買物をするようなところはなく、そのためには車で先程の街まで行かないと駄目らしい。とにかく古そうな家が多い。でもジブドー家の内部はきれいに改装され、とても趣味がいい。きっとお母さんのセンスがいいんだね。壁紙も家具もカーテンも田舎風のかわいらしい感じにまとまっていて、私は一目で気に入ってしまった。もともとベア達は先程の街に住んでいたそうだが、相続したこの家を改装して、ベアが17才の時に引っ越してきたそうだ。人がよさそうでやさしそうなパパとママンと挨拶をして、いきなりブリオーシュで午後のお茶の時間。その後家の近くをベアと散歩。ジブドー家の果樹園など紹介してもらいながら家路を急いだ。何しろマイナス10度に近くて、とてもじゃないが散歩を楽しむような気温ではないのだ。果樹園の方から街を見下ろす景色は絶景。夏はたいそう気持ちがいいだろうなあ・・・。クリスマスのメインイベントである夕食は6時半頃から11頃まで続いた。まずオードブルのオードブルとしてカナッペとチェリー酒(もちろんママンの手作り)のシャンペン割りでおしゃべりを楽しんだ。本番はシャンペンとフォアグラでまず乾杯のあと、パンタード(ほろほろ鳥)の赤ワイン煮込み。これには近くで採ってきたキノコも入っていた。そのあとはロースト・ビーフ。私のためにビアン・キュイ(よく焼くこと)にしてくれたとのこと(私が赤い肉がきらいだから)。ママンが「フランスの牛だから心配しないで・・・」と言っていた。この間もちろん料理に合わせてとっておきのワインが出されたことは言うまでもない。魔法のようにお宝が眠っている地下のカーブ(地下室・食料貯蔵庫)から年代もののワイン。普段はアルコールを飲まない私であるが、どれもおいしくいただきました。そしてニンジンとプチポワ(グリンピース)の温サラダと菜園でとれたおいしいレタス。その後は定番のフロマージュ(チーズ)の時間。ロックフォールとブリー、リバロとクリームチーズ、ブルザン(にんにく)とコンテの6種。その後は一口ケーキと手作りのガトー・ドゥ・ショコラ。どれもおいしくて幸せだったのだが、なんせ量が多くて、食べないとママンに申し訳ないし・・・とけっこう胃との戦いでもありました。音楽もテレビも付けず、みんながテーブルを囲んでお話と料理とワインを楽しみながら過ごすひととき。これが典型的なフランス人のクリスマスの過ごし方なのだろう。どんどんこのような小さな街では過疎が進み、こんな風な静かなクリスマスが失われていくのだと思うと淋しい。それはもうすでに日本では失われてしまったお正月にも言えることだが・・・。

■1996.12.30(土)
前回の続き)
・・・そんなこんなで、ジブドー家でのクリスマスディナーは終わった。しかし2日目25日の昼食も前夜の残りを中心に、それでもフルコースで行なわれた。その日の夜は9時ごろからまたフルコースが始まった。アントレは野菜のポタージュ、次はサーモンのサラダ、メインは小牛のブラウンソース煮、マッシュポテト添え、ニンジンとプチポワの温サラダ、そしてフロマージュ、そしてデザートはタルト2種(チェリーとリンゴ)。とってもおいしいのだが、もう・・・おなかが・・・。この日はベア・パパの訛りにも少し慣れ、パパも私の下手なフランス語に少し慣れ、話が前日よりも弾んだように思う。とにかくベア・パパもベア・ママもすごく優しい人。素朴で飾り気がなく、私は2人が大好きになった。翌日26日は朝早く旅立つベアを見送り(ベアはボルドーへ姉組に合流しにいく)、私たちのTGVは夕方遅くなので、お昼を食べてから近くのディジョンへローカル線で出ることにした。とりあえずベアを見送るために早起きをしたので、カフェオレとパンとジャムのシンプルで典型的なフランス人の朝食にありついた。ジャムはもちろんすべてママンの手作り。果樹園で採れたものばかりだ。3種類ほど出してくれたが私が最も気に入ったものはコワン(ぼけの実)のジャム。「おいしい~~~」と絶賛すると「持って帰りなさい」と2瓶もくれた。ありがと、ママン。ママンを見ているとやはり日本の母を思い出す。前夜、無理に元気なふりをしてベアとじゃれているママンを見ているとやっぱり涙が出そうになった。お母さんはみんなみんな優しく遠く離れた子供たちを思っているのだ。
軽い朝食の後、昼食までの少しの時間、パパが森へ連れていってくれた。大きな氷柱の下がる穴を見せてくれたのだ。森は木の葉がみんな散ってしまい淋しかったが、夏はたくさんのものを住民に与えてくれるらしい。この地方、冬は確かに寒いけど家の中はきちんと暖房が効いていて快適に過ごせる。特に居間兼食堂は暖炉が健在。薪をくべるのはパパの仕事だ。あっと言う間に午後になり昼食の時間、ごめんなさいだが、私はもうほとんど食べられない状態だった。1時のローカル線に乗ることにしていた。20分くらい前にはご馳走様をして車に荷物を運びこんだ。クリスマスプレゼントにもらったチョコレートとジャムと農園でとれたたくさんのリンゴのお土産が増えた。家の前でママンにあいさつ。パパとは駅でお別れ。私にとってもジブドー家のこの可愛いお家は楽しいクリスマスの思い出の場所になった。またいつかやって来たいな・・・。
27日(金)はシテ・ユニベルシテの日本館に絵の展覧会を見にいく。友人が絵のモデルをしていたのだが、その絵が展示されているというので行ってきた。なんだかとても優しい絵に仕上がっていた。
28日(土)の朝はシェナンと韓国からやってきていた彼女の弟2人とブランチをした。22才と21才の弟はすごく背が高くてハンサムであった。シェナン曰く長男はかなりもてるらしい。・・・なっとく。そしてこの日の午後、私はフランスに来てようやく「ベティ・ブルー完全版(原題37,2・ル・マタン)」を映画館で見る機会を得た。夏から愛をテーマにしたフランス映画のフェスティバルがフランスの10大都市を回っており、そのプログラムにこれが入っていたのですごく楽しみにしていたのだ。かなりの回数見てきたが、初めて字幕なしに見ると今まで気付かなかったことが色々とわかってきて、改めて深い感動を覚えた。字幕には表現しきれない台詞やユーモアが私にも少しは分かるようになってきたのかな・・・。それに字幕を追うという作業はやはり同時に多くのことを見落とす可能性もあるから、作品はダイレクトに味わえればそりゃ、それが良いに決まっている。とにかく大満足な3時間であった。
この日の夜はハルエ邸で忘年会。そこでジャン・フランソワ君という新しいフランス人の友人ができた。彼とは今後さっそくエションジュ(語学の交換授業)をするつもりだ。彼は言語学(フランス語)専攻の学生で日本語も勉強している。彼はすごくおだやかな性格の人で、外国語を学ぶ大変さをよく心得ているので、ゆっくりと判りやすい言葉で話をしてくれるし、とても勉強になる。何よりフランス人の友達ができた事はとても嬉しかったのであった。
29日は疲れ切っていたので1日眠っていた。そして今日30日はユキコ邸で忘年会であった。
ごちそうをたらふく食べたこの一週間。寒さで凍死する人が続出している中、暖かい家のある事を、ご馳走を皆で囲めること・・・感謝せずにはいられない・・・。

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