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31/07/1996

フランス留学記 1996年7月

■1996.7.3(水)
おとといも昨日も今日も天気が悪い。いったい夏はどこに行ってしまったのでしょうか。寒くて寒くて、ブルゾンやPコートや着ていたり、マフラーを首にまいている人も多く見かける。日本からのメールにはみな「暑くてたまらん!」みたいな事が書いてあるけど、こうなってくると、少しばかりうらやましいなあ・・・。でもきっと、ないものねだり。半袖のTシャツ1枚で歩ける日はいつ?
さて6月30日から昨日までの3日間の「フェット・デュ・シネマ」は盛況でどこもすごい行列、人気作品は「コンプレ(満員)」で見られなかったりした。(こちらは日本みたいに立ち見で正規料金を取るようなセコイ真似はしないのだ)初日の日曜日は疲れていたので、家のテレビでツール・ド・フランスを見ながら、ぼーっと過ごしていたら、ハルエから電話で近くのカフェでおしゃべりをした・・・ので、何も見なかった。しかし、夜のニュースでその盛況ぶりを見て「あーしまった!」と後悔。翌日はシャルロットの新作を1本。昨夜は「COMMENT JE ME SUIS DISPUTE(カンヌ映画祭96公式参加作品)」・・・これはマチュー・アルメリック扮する若い大学講師を取り巻く女性たちや友人たちの話。これも出演者が喋りまくるタイプの映画で、だらだらした展開にだんだん腹がたってきて、あと30分・・・と言うところで、途中で出てしまった。でも今となっては最後が気になる。3時間コースの映画は最近つらいっす。そしてその次の映画館へ「レオン・インテグラル(完全版)」は、プラス・ディタリーのゴーモンの単館ロードショーなので、そこへわざわざ行ったのだが、すでに満員御礼の札が・・・。仕方ないので家の近所の映画館で最終回を見ることにした。そこでは10本くらいの映画を上映していたが、「LE FACTEURE」か「TRANSPOTTING」を悩んだ末、「トランスポッティング」を選んだ。結果的にはまあまあおもしろく、この間行ったばかりのロンドンが出てきてなんとなく嬉しかった。これもこの間のカンヌ映画祭公式参加作品でけっこう物議をかもした作品だったようだ。まあ、10Fじゃなきゃ見なかっただろう映画なので、なんだか得した気分。ときには普段と違う作品をみるのもおもしろいです。シャルロットの「ジェーン・エアー」は特推でもないですが、あー久々に清いものを見たという感じです。いずれも日本で見る機会があるでしょうから、お試しあれ。

■1996.7.5(金)
さっき、母親と電話で話したが、日本も少し寒いといっていた。・・・にしたって、パリのこの天候はなんだろうか?寒すぎるよー。7月だって言うのに・・・。家のなかでも毛糸のものは離せない。
今日近所の店を偵察。モット・ピッケから始まるコメルス通りには実に様々な種類の店が揃っている。コメルス讃歌は以前にもたくさん書いたのでやめておくが、エミール・ゾラ駅あたりから教会にむかって歩く時の風景は本当に私を引き付ける。もっとパリらしい風景というのはパリ中にたくさん転がっているが、ここはパリらしいというよりは、ちょっと田舎の中心地という感じでしょうか。なんで日本にはこういう場所がないのでしょう。・・・ところで今、街はソルド(バーゲン)の真っ最中にもかかわらず、この冷夏・・・を通り過ぎて晩秋のせいで、夏服を見る元気がありません。
この週末をピークにパリの至る所で、無料のコンサートなどが行なわれている(もちろんプロが中心)。私はジャズを中心にプログラムをチェックしていて、明日は一つラ・ヴィレット公園であさってまで行なわれているものを見てこようかな、と考えている。しかしこの充実したプログラムをお見せできないのは、本当に残念。本当にいつもどこかで無料か安い値段で文化的な催し物が行なわれている。もちろんジャンルも選り取りみどり。それは実にすごいことだと感心させられる。他にももちろん行ってみるつもり。この6月下旬から7月14日の革命記念日(日本ではパリ祭と呼ばれている)までが、そういったコンサートやイベントのピーク時となる。もちろん年中何かをやっているが、この季節はさながら日本の夏祭りの乗り。そしてその最後の山場が13~14日であることは言うまでもない。この日はパリ市内で言うと15ヵ所でミュゼットを中心に音楽やダンスなどの田舎風の祭り(バル)がある。その一つはラッキーにも私んちのすぐ近所。家から1分くらいの所なので、にぎやかに違いない。そして一度はだれもがニュース等で見たことのある軍隊の行進や航空ショーが14日の午前中、シャンゼリゼからコンコルドまで。そして夜はエッフェル塔のふもと、シャン・ド・マルスでコンサート等が大々的に行なわれた後、締めは暗くなってからの花火。私にとっては初めてのことなので、やはりすべてお上りさん気分で全部観ておきたい。

■1996.7.10(水)
先週の土曜日、ラ・ヴィレット公園のジャズ・ライブ・フェスティバルに行ってきた。私の個人誌を読んでくれていた人は、よく知った地名のはずである。パリの北西の端にある、大きな現代的な公園。私にとっては約2年ぶりの訪問なのだが、その時に比べていくぶん活気を取り戻したような様子だった。何よりもまず、フォリーと名付けられている赤い色の施設はすべて新しく塗り直されていて、全体的な印象まで、私には変わって見えたくらいだ。この日は土曜日、それにフェスティバルも最終日も近付いているせいもあるのか、とてもにぎやかだった。野外ではマーチングバンドも何組かにぎやかに演奏していた。わたしたちが見た無料のコンサート以外にも公園内に数ヶ所の会場が用意され、それらはすべて内外の有名なミュージシャンによる有料のコンサートだ。と、言っても無料のそのコンサートがしょーもない訳ではなくて、私たちは20時からのと21時半からの2回ともを見たのだが、その盛り上がりはすごかった。アメリカのニューオリンズから来た彼らも私たちの拍手と歓声に満足して2回もアンコールに応えてくれた。
ところでここ、ラ・ヴィレット公園は7年半前、外国からバスで入ってきた私が、パリの地として初めてしっかり踏みしめた場所。あの時は真冬だったから夕方の早い時間、4時~5時くらいにかけて、昼間から夕方そして夜の公園に色が変わっていく経験が何よりも印象的だった・・・。「青い光とフォリーの赤がとてもきれいなのよ・・・」と言うような事を一緒に行った友人に説明しながら帰路についた。
そして翌日、日曜日はすごい雨が何度もふり、前日に引き続き晩秋のような寒さ。憂鬱だった。
そして月曜日に事件は起こった。朝、9時ごろ起きると、家中の電気が止まっているのである。1時間くらい冴えない頭でぼーっと考えた末、やっぱり電話でまず交渉か・・・と重い腰をあげた。と、いうのも今の私にはやっぱり電話で何かを交渉するのはやっぱり難しいからだ。EDF(電力公社・・・何だか中国語みたい)のお客さま係みたいな所へ電話をし、今朝から部屋中の電気がとまっていること、夜中寝るまでは電気が使えたこと、部屋の外の廊下は電気がつくので、私の部屋だけの問題だと思う・・・などと伝えて、色々調べてもらった。そしてわかったことは、私の名前は登録されてないということ、私の入居前の電気代が払われていないので、料金滞納で止められたということだった。大家の小林さんと契約をしたとき、電気の名義変更はどうするんですか?と訊ねたところ、名義変更の必要が特になければ今は私の名義になっているからそのままにしておきましょう・・・ということになったのだ。そうしておけば私が出ていくときにも名義変更の手続きをしなくてもいいし、その方が私にも都合が良いような気がしたのだが、結局ポストの名前が大家の名前じゃないので、請求書が配達される訳もない。2ヵ月毎に届く請求書が4月も6月も届かなかったので「いったいどうなってるんだろう?」と思いつつ、深くは考えなかった。とりあえず料金を払えば今夜から使える、とのことなので「すぐ今から行きます」といって電話を切った。近所のEDFに出かけていくとまたその人に一から事情を説明し滞っている料金をすべて払うのですぐに電気を使えるようにしてほしい、と言ってもその人は「あなたが払うべき料金は4月5日からの分なので、その前の費用を大家が払わないとそれは無理だ。早くても水曜日までは無理だ」と、訳の分からないことを言う。「じゃあ、私はどうすればいいんですか?請求書を受け取ってないのだし、私のせいではないでしょう?」「シェパ(知らないわ)。友達の家にでも泊めてもらったら?」「そんなこと出来る訳がないでしょう。ところでいったいいくらなんですか?」「590F41」「それなら私が今払うのですぐに電気を使えるようにしてほしい」というと「大家の分も?それなら話が早いわ」と処理をしてくれた。最初から全部払うって言ってるやろ!と、心のなかでブツブツ思いながら、小切手を切った。こっちとしては大家とは前もって電話で話をして来月の家賃を安くしてもらうことになっているので、お金のことは問題じゃないのだ。自分が払う必要のない1万円を拒否して2日間電気のない生活をする人はフランス人にはまだまだいるのかも知れないなあ・・・とフランス流を実感。日本のサービスと明らかに違うのは、これが駄目ならこれ・・・と言うような選択肢がこの国には少ないと言う事だろうか。
さらに事件は続く。昨日の夕方、クリーニング屋に行ってきた。昨日で4回目の訪問だった。約5週間前に私は5ツ商品を出して、その1週間後に仕上がった3つの服を受け取った。「あと2つまだなので数日後に来てください。お代はその時でいいから」と店のおやじが言った。革の手袋とお気に入りの厚手のセーター。その時は「はいはい、じゃあ、また今度」と、店を出た。でも2回・3回目とだんだん店員の人も「なんでないんや!」みたいなイライラした態度に変わってきて、イライラするのは私!と、こちらも思ってくる。「あー。絶対なくしたに違いない。どうやって責任を取ってもらおう・・・」「また厄介な交渉ごとかよー」などと・・・と憂欝な気分になっていたのだ。「探しておくから・・・」と返されて、そして昨日4回目。昨日はさらに「まだ他の商品の代金を払ってない」とか「セーターの方はもう返しただろう」とか散々いやな思いをさせられ、「オーナーのムッシュウが代金は全部揃ってからでいいって言ったんだ」とか「絶対に受け取ってない」とか、なんだかフランス語で言い返すときは、まるで子供の気分だった。奴らの探し方と言ったら要領の無さを極めていて、いらいらするったらない。「何色だ?」「マロン・フォンセ(濃い茶色)」と同じ事を何度も聞きながら、同じ所をペラペラとやっている。昨日はオーナーがいたせいか、店員もいつになくイライラしながらいつもよりは真剣に探していて、結局はあるべき所にあったのだ。何度も私の目の前でペラペラとやっていたセーターの棚にである。もう一枚余分にめくっていたらもっと早く見つかっていただろうに、まったく・・・。「探しておく・・・」って言って探していたとは思えない。フランス流、面倒臭いことは先送り・・・の巻きであった。オーナーも店員も帰るときには「マダム、エクスキューズ・ヌー(すまなかったね)」と、笑顔で送ってくれたが「許してはあげるが、もう二度と来ないよー」と心のなかでアッカンベーをしながら私は店を出たのであった。
あーついてない。ついてない。最近。

■1996.7.14(日)
なんだかようやくパリにも短い夏が到着したようだ。ところで毎年行なわれるエッフェル塔周辺の花火大会。日本語情報誌の「オブニー」には14日23時から、「ニュース・ダイジェスト」には14日22時30分から・・・と書かれていた。しかしシェナンちの大家もマコト氏も普通は13日だという。結局昨日、土曜日の夜、うちの近所のバル(パリ市内のあちこちで行なわれるお祭り)に参加するためにやってきた友達と「今夜試しに行ってみよう!」という事になり、バルに行った後(これはたいしておもしろくなかった)、我が家のあるEntrepreneures通りをずんずんと西に歩くとすぐにセーヌ河に出てみた。そしてセーヌ河に浮かぶ白鳥の散歩道を北上して、ビル・アーケム橋の欄干に場所を確保した。人もそんなにたくさんではないが集まっている。でもなんだか一向に始まる様子はない。隣のフランス人に聞いても「確信はないけど、今日だと思う。さっき人に23時30分からだって聞いたから・・・」となんともあいまいな返事。ここからとても美しく全景が見えるエッフェル塔を眺めながら12時まで待ったが、どうやら何もなさそうなので、その日はあきらめて帰った。「やっぱり日本人の仕事は確実だわ・・・」と言いつつ、フランス人のおおらかさに感心しつつ、私たちは別れた。どこもかしこも爆竹でうるさいし、バルの会場はどこもすごい賑やかさだ。けっこうこれで疲れてしまったので、私は明日のシャンゼリゼのデフィレ(行進・パレード)は、やっぱりテレビで見よーっと決心。あー、怠惰な私。
そして今日、先週引っ越しを終えたマコト氏が昼食に招待してくれていたので、2時ごろ彼らの新居に辿り着いた。今度の家はバスティーユに近く、大通りに面した最上階。6畳くらいの部屋が2つとそれと同じくらいのバスルームとキッチンがあり、大きい物入れが4箇所くらいあるので、随分と広い。これで1ヵ月4400Fだそうだ。マコト君にとっては最初のホームステイも含めると7回目の引っ越しとなる。ほんとすごい。私は広い部屋も広がる青空も羨ましいけど、階段(それも螺旋)で7階っていうのは、それだけで十分つらいです。
夕方彼らの家を後にして、家で友人の来るのを待った。22時頃家を出発した。すでに街は人でごった返してして、今夜は確実に花火が見れそうな様子だった。今日は白鳥の散歩道には降りずに、グルネル橋(昨日の所よりは少し遠いが少し高いので)の上から見ようと思ったが、すでにそこも人でいっぱいだった。こんな日はあの忌まわしい高層ビル群(グルネル橋の右手はアメリカのよう)が、少し羨ましい。それでも欄干に場所を確保し、時間を待った。22時33分頃、完全に陽が暮れた頃、花火は始まった。異国で見る初めての花火。花火の始まりと共に、エッフェル塔はライトアップをやめたので、パリらしさを感じなかったが、・・・、30分間本当にきれいなショーに感動!家からすぐの所に、こんなヴュー・ポイントがあって良かった!
祭りの後は淋しい、と言いますが、個人の商店がこの日を境にぼちぼちヴァカンスを取り始める。コメルス通りも少し淋しくなるかも・・・。

■1996.7.22(月)
とうとう昨日でツール(ツール・ド・フランス=フランス一周自転車競技)も終わってしまった。日本ではそれほど大きく扱われていないこのスポーツも、こちらでは当然なのだが熱狂的に支持されている。大学生の時に衛星放送で見たときのことを今でも鮮明に覚えている。あの時はただ、そこがフランスだということと、総勢200人余りの選手たちが一団となり、風をきって走る爽快感に心を打たれた。「フランスに来たからにはツールを見なければ・・・」と、6月29日のオランダ(いつも近隣の外国がコースの一部となる)のスタートを心待ちにしていた。毎日完全生中継とその再放送、そして選手を招いてのインタビュー生放送番組「ヴェロ・クラブ」、その他にもいくつかの短い関連番組があって、私はテレビにかじりつくようにして、それらを毎日楽しんだ。フランスのテレビ番組は基本的にはひどくつまらないものなので、熱心に見たことはほとんどなかったが、解説者のしゃべっていること、選手のインタビューを熱心に聞いていたので、けっこうこの期間はヒアリングの勉強になったような気がする。
ものすごく簡単に説明すると選手たちは3つのマイヨ(ユニフォーム)を争うことになる。総合優勝の栄光の黄色いユニフォーム=マイヨ・ジョーヌ、スプリント競う緑のユニフォーム=マイヨ・ヴェール、山登りの強さを競う赤い水玉のユニフォーム=マイヨ・ア・ポア。毎日競技が終わった地点で各ユニフォームの勝者が表彰され、そしてそれには関係なくその日のゴールに一番で入ってきた人も毎日表彰される。私のお気にの選手の一人リシャール・ヴィランク(フランス)はほとんど最初の頃からマイヨ・ア・ポアを着、最終的にもマイヨ・ア・ポアを勝ち取った。なんといっても今年の話題は最近の5年間連続でマイヨ・ジョーヌを勝ち取ってきたミゲール・インデュライン(スペイン)の6連覇なるか?・・・と言うことだったのだが、残念ながら最初の難関アルプスがすんだ地点でそれが無理なことは誰の目にも明白になっていた。
とにかくドラマだった。最終地点のパリに辿り着けるのは半分くらいだ。どれだけ苛酷か想像できるだろうか?1チームの主要メンバーは9人だが、たくさん残っているな・・・と感じるチームで7人くらい。少ないところは3人だった。昨年2位のローラン・ジャラベル(フランス)も最初の方で棄権してしまったし、初盤戦、嬉しそうにマイヨ・ジョーヌを着ていたステファン・ウロも泣きべそかいて中盤に棄権。今年の悪天候を象徴するかのように、アルプスコースは吹雪(7月だというのに)で、ツール始まって以来のコース変更となった。ともかく前半は雨雨風風と寒く最悪の日々が続き、後半はとにかく暑く選手にとっては気の毒なツールとなった。どの人も「今年はキツイ」と言っていたのが、印象に残った。昨年は一人死者が出てしまったが、今年は大きな事故もなくその点では安心して見ていられた。もちろん転倒・落車は数えきれないが・・・。笑ってしまったのは山登りコースで他の選手がカーブを曲がっていくのに一人、そのまま崖に消えていってしまった時。もちろん最初は「なんてことだ!」とすごく心配したのだが、彼はやがて自力ではい上がって来て、別の自転車に乗り換えて、元気に出発した・・・から今となっては笑える。
圧倒的な強さを見せつけたのはドイツの「テレコム」チーム。最終的にはこのチームからマイヨ・ジョーヌ(ビヤンヌ・リス(デンマーク))とマイヨ・ヴェール(エリック・ザベル(ドイツ))がでた。これはけっこう珍しいことらしい。その上、総合2位をとったノーマークの新星ウーリッヒ(リストにも載っていない)もテレコム。彼も私のお気に入りの選手。
最終日、もうすべてのマイヨは決まっていたがそれでも、ファンの人たちは熱狂的に彼らを迎え入れる。私も彼らがパリ市内に入り、シャンゼリゼに到着するのは4時半頃だと予想し、1時頃家を出た。もちろん良いポジションを確保するためにである。でも家を出たとたん、遅かったかもしれない・・・と思った。街には人っ子一人いないのである。いつもは公園でペタンクを楽しんでいる老人たちも、今日は家でTV観戦か?メトロ8号線に乗りコンコルドで降り、そこからシャンゼリゼに向かって歩こう・・・と思っていたのだが、アナウンスでコンコルド駅は今日はツール・ド・フランスの為に閉鎖されているとのこと。一つ手前のアンヴァリッドで降り、コンコルドに向かった。すでに人人人人・・・、もうどこにも入る隙間はない。でもちょうど私が最初に辿り着いた所がラッキーにもゴール地点だったので、私はなんとかそこに場所を確保すべく行動を開始した。目の前には「ヴェロ・クラブ」の生放送のセットも組まれていたし、ベストポジション!最初私は大きい人たちの後5列目位だったが、人が少し動いた隙にその隙間を狙ってじりじりと前に進んでいき、宣伝カー(右翼のような)のデフィレが始まった頃には、なぜか2列目に辿り着いた。それから炎天下のなか待つこと2時間半、あーもうだめ・・・と気を失いかけた頃、頭上に3機のヘリコプター。これは選手を空から追っているヘリコプターだ。もう、そこまで来ている!と気合いを入れて、カメラを構えた。観客を仕切る柵は2重になっていて柵と柵の間(約2M)は一応出てはいけないことになっているのだが、女の子や子供たちはそこに出てカメラを構えている。私の前にはスペイン人のでかい夫婦が3組、がっしりとスクラムを組み、私は彼らの方の隙間から背伸びをしてやっとのぞけるくらい。するとウォーという歓声と共に選手達が到着した。もちろんものすごい速さで走るのでそれは一瞬のうちに通り過ぎていった。お気にいりの選手をマークするのがやっとで写真なんて撮れたものではない。でも最終日のシャンゼリゼは旋回コースになっているので、ご安心を・・・。さっき右から左へ消えていった選手群は今度は左から右へと走り去る。これを何回も繰り返してゴールとなるのだ。彼らが2、3回通ったあと、私はいてもたってもいられなくなり前のおじさんの方をたたいた。「すみません。柵をこえたいので通してください」フランス語のわからない彼らだが、ニュアンスは伝わったようで、怪訝な顔(え?そんなことをするのか、みたいな)をしながらも通してくれた。我ながら勇気があると思って感心。さらにもう一つ柵を越え、隣の柵間に出た。なんと別天地。いいことをしたとは思わないが「やったもの勝」って言う気もする。だってなかなかこんな格好悪いことできないと思うから。とにかくよーく手に取るように選手が見える。目前に彼らが現われてから約1時間。本当に最後のゴール。私のよく知らない選手が拳を振り上げながら入ってきた。そのすぐ後にはマイヨ・ヴェールを逃がしたモカサン(フランス)の顔も見えた。表彰台は私の所からは見えなかったが、その音声は近くのスーパーヴィションから聞こえてくる。リスのマイヨ・ジョーヌが決定的になったのはもう数日前のことなので、デンマークからの応援団がすごい数だった。シャンゼリゼにはともかく昨日はデンマークの旗だけが翻っていたと言っても過言ではないだろう。さあ、ここからが大切。選手がゴールし、表彰が終わるとシャンゼリゼを埋め尽くしていた観客は少しずつ帰路につくのだが、その後すべての選手(もちろん完走した人だけ)が自転車にまたがり、スタッフの車がその後につき、チームごとにゆっくりとそのコースを旋回してくれるのだ。それがなんとも感動的だったわけだ。こんなことをするなどと夢にも思っていなかった私は、物凄いスピードで走り抜けていく彼らの写真をだめもとで、無駄に撮ってしまったので、その時にはもう十分にフィルムが余っていなかった。でもそんなことは、もうどうでもよかった。走りぬいた彼らの笑顔は最高に素敵で、そんな彼らが手を伸ばせば届きそうな所にいる。ずーっと、見てきてよかった、今日も待っていてよかった。いっぱいいっぱい手を振り、拍手をしてきた私でした。ああ、感動のとき。
今年はツールの色々なことを学んだので、来年はもっともっとおもしろくなりそう!
・・・という訳で、また一つ祭りが終わり、今日からパリはますます淋しくなっています。私のいつも行く雑誌屋さんも昨日から1ヵ月の休暇に入った。街はシーンと静かです。そして暑い暑い夏がやってきました。

■1996.7.27(土)
今週は色々と慌ただしく過ぎていった。先週くらいからの暑さは今週本格的なものとなり、夏の到来を感じさせた。短い夏が本当にやってきたわけだ。ヨーロッパの夏は短くて、そして、本当に美しい。日中の日差しは確かに汗ばむ程に強いのだが、日陰や石造りの古いアパルトマンの中に一歩、足を踏み入れると、そこは別世界のように気持ちがいい。日本の夏は大嫌いだが、ヨーロッパの夏は一番好きな季節。
さて木曜日の早朝にタジマ親子(タジマさん=タジマンとその娘アヤちゃん)とトモちゃん(タジマンの姪、アヤちゃんのいとこ)がパリにやってきた。再会を本当に楽しみにしていた。でも現実に目の前に現われたタジマンを見た時は、不思議なことに昨日まで会っていたような感じだった。本当に不思議!タジマさんにすれば、長い準備期間や飛行機も二回も乗り継いで来た訳だから当然「あーたどりついたー」という感慨があるに違いないが、私にすれば、なんだかドラエもんの「どこでもドア」から出てきた感じがする。ともかく本当に会いたかった人なので、パリを一緒に歩けるなんて、とても幸せな気分です。この日は私にとっても一番の早起き、朝の5時半に起きて、いつ電話がかかってきてもいいように支度をしていた。(6時頃に飛行機は到着予定) 7時過ぎには電話がつながり、私も急いで家を出た。ホテルで迎える約束なので、私の方が遅いのでは意味がないのである。結果的には私の方がずいぶん早くシャトレー近くのホテルに辿り着き、彼女たちを無事に迎えることができた。荷物を部屋に置き、早速早朝の街に繰り出した。私にとってはしばらく忘れていた懐かしい朝の清々しさであった。カフェで朝食をご馳走になりながら、色々と話をした。10日間の予定などもね。カフェを出て早速アヤちゃんやトモちゃんの好きなアニエス・bに案内した。その後はサンジェルマンの辺りを散策したりし、一旦部屋にもどった。そこで再びタジマンと私は話し込み、色々な方々からのお土産を頂き、感謝感激。一つ一つのお土産について、その人の思いを一緒に運んでくれたタジマンにも、本当にありがとう。この日の夕食は、タジマンも行きたかった「カフェ・ド・コメルス」で。おいしかったね。こうしてほんとーに、ながーい一日が終わった。
翌日、すなわち昨日は彼女たちのモンマルトル探険に同行した。私もモンマルトルは大好きな所だが、とくに用事もないところなので、こんなことでもない限り、なかなか足が向かないのだ。そのあと私の(?)パッサージュも少し見てもらった。気に入ってもらえたかな? 
さて今日は、私はヴァンセンヌの公園で9月末まで行なわれている無料のジャズコンサートに行く予定だったので、タジマさん達も誘ってみたところ、興味をもってくれたので一緒に行く予定だった。が、トモちゃんがちょっと疲れ気味で今日は不参加を決意。アヤちゃんもトモちゃんと一緒に部屋に残ることになり(先はまだ長いものね)、結局タジマン一人の参加となった。今日のミュージシャン(毎週変わる)はダニエル・ミルというアコーディオンをやる人とサックス・ベース・パーカッション・ピアノ兼ギターの5人構成。彼らの音楽は感動的なくらいに私の趣味に合い、私は早速その場で売られているCDを買ってしまった。ジャズをベースにアコーディオンの音がかぶさる事でまた別のジャンルを作り出している感じがする。まったくのジャズでもなくまったくのミュゼット(アコーディオン音楽)でもなく・・・。会場は野外なので暑かったが、彼らの質の高さにタジマンも満足してくれたようで、私もうれしい。
本当は今夜、日が暮れてからセーヌ河の遊覧船の乗るつもりだったのだが、夕食の時間がうまく取れないこともあって、それは月曜日に延期。一緒にスーパーで買物をして今夜は別れた。明日は朝市、のみの市、バラビュス、そして夜はショーを見にいくのだ。ショーはタジマンが連れていってくれるとのことなので、私には初めての経験だし、楽しみだわ!

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