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31/03/1996

フランス留学記 1996年3月

■1996.3.1(金)
昨夜はパリにやって来た某大学のM氏と夕食。サンジェルマン・デ・プレの「ドゥ・マゴ」でお茶をした後、私の家の近所にあるレストラン「ル・カフェ・デュ・コメルス」へお連れした。このレストラン は繁華街でもない住宅地のど真ん中にありながら、すごく流行っている。この私の住む15区は今では安全な住宅地だが、昔は工場などが多く職人や労働者の街だったらしい。そしてその頃からフランス人も職場と自宅の距離がひらき始めた為、昼食のために自宅に帰るという習慣が崩れ始めて、ここもそういう労働者の為のいわば定食屋のような店として始まり、歴史は長い。ただ一度は荒れ放題になりかけていたらしく、今のオーナーが大幅に改装をし立直したらしい。今では3層吹き抜けの広々とした空間に、19世紀末風のインテリア、本物の植物もいっぱい、そしてガラス張り天井(天気のよい夏の日はこの電気仕掛けの天井は開くらしい)で感じの良いレストランだ。値段も非常に手ごろで(100F前後)料理もなかなかおいしい。それに年中無休で12時~24時までノンストップ営業なのがうれしい。ということでおススメの一店なのである。
余談:カフェについて一言、言っておこう!いつもだいたい私が利用する普通のカフェでは、エスプレッソの値段は10Fくらいが当たり前。しかし!シャンゼリゼやサンジェルマン・デ・プレといった観光客の多い界隈の有名カフェでは20-25F。その後を追うのが15-20Fでシャトレ、バスチーユ、モンパルナス界隈だろうか。観光客なら旅の思い出にもいいだろうが、私達貧乏学生にとってはけっこう死活問題なので普段は滅多にこんな所へは行きません。
ところで昨晩M氏とも色々な話をしたが、パリで活躍しながら最近エイズで亡くなった京都出身の若手アーティストの話が出た。彼はマコト氏とも知り合いだったし、そう、パリにいると日本にいる時よりもエイズ(フランス語ではシダ)や民族(文化の違い)の問題は、かなり身近な話題に感じる。私のクラスにいたシリア人のスラフは今日で授業を終え、日曜日に国に帰るのだが、彼女が昨日あたりから涙を浮かべていたのは単なる友人と離れる淋しさからだけではない。彼女は家族と一緒にヴァカンスで来ていたのだが、パリにいる間だけは様々な拘束から解き放され、学校にいる間だけは完全に自由になれるため、彼女にとっては最高の時だったみたいだ。と、いうのもシリアは他のアラブ諸国と同じで女性の行動はかなり規制されている。服装も自由ではないし、未婚の女性は一人では外出できない(必ず母親か兄弟が付き添う)し、家長制度も残る完全な男性社会なので、クリスティーア(彼女はフェミニストだから特に)と私は、いつも「アンクワイヤーブル!(信じられない!)」を繰り返している。スラフはおしゃべりで陽気だし、それほどお洒落ではないけれどパリで洋服のショッピングを楽しんでいたようだった。それでもいつもシリアの話になると途端に悲観的で投げ遣りな物の言い方をする。しかし彼女は嘆きながらもそういった国での自分の立場を受け入れるタイプ。それとは正反対なのが彼女の姉(他のクラスにいた)、ラシャ。彼女はスラフと違いスタイルも良いし、美人だ。そしていつもはっと目を引く華やかな服装(いつもすごいミニスカート)で着飾っている。いつも各教室にある大鏡で自分の姿に見入っているのが印象に残っているのだが、なんと彼女はそういった女性の立場を捨てて性転換したいのだと言う。これにはさすがの私もビックリした。あんなに女性を強調した服装でいる彼女がまさか、真剣に性転換の手術を受けたいなんて・・・。彼女が本当にそういった道を選ぶかどうかは私にはわからないが、そこまで追いつめられている彼女たちを見ていると笑い話ではすまされない、深刻な問題なのだと考えさせられる。

■1996.3.2(土)
今日は快晴。なんだか春の到来を思わせるような・・・なんだか浮き浮きしてくる。
さて今日はけっこう内容の濃い一日だった。というのも、昨日久しぶりの日本人会の掲示板を覗いて1件、フリーペーパーで5件(1日は物件のたくさん載っている日本人向けフリーペーパーの出る日)興味のある物件をチェックし、3件ばかりオーナーと見学の約束を取り付けたのだ。今日はその内の1つを見ることから始まったのである。
それではそれらの物件を紹介します!
・以下はすでに見学の約束を取り付けたもの
①4区マレ地区(ヴォージュ広場すぐ)、4000F(管理費込み)、25㎡、3階、仏人オーナー
良い点:場所が最高にいい
問題点:浴槽のないこと、中央暖房でないので少し家賃きつめ
②18区モンマルトル(の丘のふもと)、3700F(管理費込み)、35㎡(2部屋)、2階、日本人オーナー、地下倉庫(カーブ)付 
  良い点:広い、家賃まあまあ、カーブがある、オーナーが日本人、駅から1分
問題点:浴槽のないこと、繁華街
③11区レピュブリックの近く、3190F(管理費込み)、37㎡、日本人オーナー、詳しいことは未確認だが、浴槽はありそう
良い点:安い、広い、駅から1分
問題点:何の特色もない地域
・以下はまだ電話連絡をしていないので詳しいことは未確認
④1区か3区シャトレー(フォーラム・デ・アールやポンピドゥーセンターの近く)、 3600F(管理費込み)、35㎡(2部屋)、外国人オーナー
  良い点:広い、物件のわりには安い、設備が整っている
問題点:便利な場所だが私がそれほど好きな所ではない 
⑤6区 4200F、30㎡、外国人オーナー、中央暖房に管理人付き
良い点:希望の区、中央暖房に管理人、設備良し
問題点:面積と家賃が変わらない
⑥14区か15区モンパルナス、2500F、35㎡、外国人オーナー 
良い点:広い、ムチャ安
問題点:駅から少し距離がありそう、浴槽のないこと
・・・ということで今日は午前中から①を見てきました。昨夜の電話の応対から親切なマダムの様子が伺えていたけれど、会ってますます良い人でした。賃貸を商売にしていない個人の大家というのは商売気がなくて感じが良い。うちの今の大家ゴテー氏なんか一家でビルをゴロゴロ所有して貸しているくせにずる賢いばかり・・・。この家はこの間まで彼女の娘が住んでいたらしいが、結婚してここを出たので、人に貸すことにしたらしい。家具は付いてなかったのだが、そのことを言うとマダムは「もちろんあなたが必要な家具は私が用意しますよ」と言ってくれた。この近所に住んでいるという親切なオーナーマダムと場所が最高に良い所なので心はかなり動いたが、今日は見送ることにした。残念だけど少し狭さと家賃が気になるので・・・。
②は明日12時から③は5日の夕方に見学。

■1996.3.3(日)
今朝も元気に、朝から電話で起こされた。最近こればっかりだ。でもおかげでいつもより早起きが出来ている?今日の犯人は(?)ハナエ。最近パリに着いたばかりの若い女の子だ。とりあえず週貸しアパートに落ち着いたので、連絡をしてくれたみたいで、彼女とはアパート見学のあと、芝居が始まるまでの時間にお茶をしようと約束をした。彼女もこの1週間でなんとか家を探すぞ!と息巻いていたが、どうなるでしょうか・・・。
12時にアパートを見学、日本人だけどマダム・メゾン言う名のオーナーと現地で待ち合わせ。駅から本当に1分だけど、やはりここもピガール周辺の街並がなんとなく続き、あまり好きになれない。モンマルトルだがモンマルトルにあらず・・・。通りからはサクレクール寺院がくっきりはっきりと、手に取るように見えるのだが・・・、部屋も広いが陰気臭く、私の趣味じゃない家具がたっぷりとあったので、いろいろ聞くまでもなく「さようなら」・・・あ、でもどうしてこの部屋を出るのかは聞いた。帰国するそうです。
何といっても今日のメインイベントはシャンゼリゼ近くにあるロン・ポワン劇場での観劇。80Fでゲットした「ロメオとジュリエット」だ。劇場の案内係はみなイッセイ・ミヤケデザインのプリーツのユニフォームを着ていてなかなか愛想も良い。席まで案内してもらい、前から9列目真ん中に近い座席に満足していたら、芝居が始まる直前には「遅れてくる人を案内しやすいように・・・」と中央部の空いている席に移動しても良いと言う。おかげでど真ん中の席をゲット。ラッキー!ドキドキしながら始まりを待っているとどこからともなく煙が・・・。ご心配なく。演出上の蝋燭なのだが香料の入っている大量の蝋燭に火が点されて会場は良い香に包まれた。緞帳があいて見える舞台美術は、金属の対の階段と場面によってイスやソファーだけ。いま流行の感じだ。背景はなく、布による演出が何回かあるだけ。台詞も役柄の設定も衣装も今風。どちらかというと少々下品なロメオ。ロマーヌ(ジュリエット)は想像どおりのうまいけどくどい。ドニ・ラヴァンは映画同様、独特の台詞回し。でも一番印象に残ったのは演出方法。日本で宮本亜門演出の「椿姫」を見たが、それとほとんど演出方法がとても似ているのだ。それが気持ち悪い。この演出家、ドイツ人のクロース氏は、すでにヨーロッパやアメリカで活躍中の人でクラシカルな作品を手掛けているということだ。ところで正直なところ作品の善し悪しは私にはわからない。芝居の台詞は複雑だから映画よりかなり難しくて、ほとんど解らないからだ。でも主演の若い二人の演技には心を打たれた。
おまけ:芝居の後、ホワイエに出て出口へ向かう観客の列のなかでじりじりと前に進んでいたとき、ホワイエでそわそわと誰かを待っているような(ロマーヌの父親で有名な俳優)リシャール・ボーランジェを発見。私は列の一番端にいたので彼とすれ違うとき10センチくらいしか距離がなくてドキドキしてしまいました。ほとんど誰も気付いてなかったけど私の前の女の子は気付いたみたいで、隣の彼に「ねえ、リシャール・ボーランジェだ」と耳打ちしていた。きっとみんな気付いたとしても知らんぷりするのがフランス風。私も後ろ髪引かれる思いで劇場を後にしました。でも会えて感動!
おまけ2:昨日の物件さらに⑤は契約済みで消えた⑥はやっぱり浴槽がないからやめる④はどうやら冬のヴァカンス(この週末から2週間はフランス人の冬のヴァカンスシーズン)にでも旅立ったのか、まったく連絡取れず。

■1996.3.5(火)
今日は学校の後、2つ物件見学のランデ・ヴーが入っていた。一つは先週書いていたレピュブリック界隈の③、もう一つは昨日クリスティーアと見にいったエグリーズ・アメリカンの掲示板で見つけたモンマルトルの物件。③は今悩んでいるけれど、きっと見送ると思う。そしてモンマルトルの方はあきらめたのだけど、これが書かずにはいられないほど素晴らしい物件なのだ。
ガイドブックでもお馴染みの有名なモンマルトルの丘の真上にサクレクール寺院があり、その横に古い小さなサン・ピエール教会そしてテルトル広場。その部屋はサン・ピエール教会の横に位置する建物の最上階にある(日本で言う5階)。エレベーターはなかったが、建物の状態はとても良くて、手入れの行き届いた清潔な建物。くるくるとら旋階段を昇って行くとその部屋はあった。今の借り手の俳優さんも感じの良い人で、オーナーのムッシュウも昨夜の電話からとても感じの良い手応えで、その通りの人。親切に説明をしていってくれる。もう私のイメージした通りのパーフェクトな部屋だ。ここは30㎡のステュディオに5㎡のメザニン(日本でいうロフト)がついていて、そのために天井も高く気持ちが良いし、そのメザニンにベッドがあるのだが、そこに天窓がついていて、その天窓をあけて顔を出すと、サクレククール寺院が独り占め。遮るものは何もなく(ここらの建物はみな低めだから、5階は高いほうに入る)、白亜の殿堂がすぐそこに・・・。信じられないロケーションだ。台所も完璧に完備されていて、この俳優さんはあまり自炊をしてなかったのだろう、とても衛生的な感じに保たれている。収納棚も充実しているし、家具はセンスのいいちょっとアンティークっぽいものが、置かれている。給湯と暖房がガスなのも気に入った。窓から見える風景はどこも絶景・・・。テルトル広場を見下ろし、パリ全市を見渡せるすてきな部屋。その上、外の音は(あんなににぎやかなのに)何も聞こえないし・・・。これで管理費込み4000Fは決して高くはないと思う。
部屋探しをしていて、こんな部屋を見られただけ幸せかな・・・。「家賃をまけてー」なんてことを言っても嫌な顔をしないで真剣に考えてくれた。こんな所に一度は住んでみたい。しかし実際ここに住むことはいろいろ大変なことも分かっている。だから最初からここは見るだけだろうと覚悟していた。丘のてっぺんだから気持ちは満足しても、やはり何かと実用的ではないのだ。1ヵ月の旅行者なら私は2倍払って借りてもいい。でも日常生活を送るとなるとちょっと・・・。そのせいかやはりこのモンマルトルには、時間や日常、実用と言ったものから縁遠い人が多いみたいだ。例えば有名な俳優も多く住んでいるし、やはり芸術家やデザイナーなどなど・・・。そんないろいろな世間話をして握手をしてオーナーと俳優さんと別れた。ああ、みんなにも見せてあげたかった。
③の物件は今住んでいる日本人夫婦が案内してくれたのだが、旦那が画家でかなり強烈な個性の人でおもしろかった。ここでも日本茶でもてなしを受け、いろいろおもしろい話を聞けた。疲れたけど、あー、おもしろかったです。今月のテーマは物件見学だね。決定。
ところで今日びっくりしたこと!!!このモンマルトルの丘からテクテクと下りてきて、メトロの近くまで来たときに、「こんにちわ」と日本語で呼び止められた。私は2~3歩歩いてからゆっくりと振り返った。もしかして私ですか?・・・という感じで。すると驚いたことに日本でフランス語を教えてもらっていたエリジ先生だった。「おぼえていますか?」だって。こっちが聞きたいくらいだ。「なんで私なんか覚えているんですか?」と。エリジ先生はあんまりレッスンも当たらなかったし、こっちは4人いた先生の一人だから忘れないけど、向こうにしては何十人、何百人いる生徒の一人に過ぎないわけだし・・・。彼が地震のあと奥様と一緒に生れ故郷のパリに戻っていることは聞いていたが、もう一年位あっていないことになるだろうか・・・。道路で立ち話をして電話番号の交換をして別れた。何か困ったことがあったらいつでも言ってきてください、といって頂いた。彼はこのモンマルトルで生まれて家をずっと持っていたらしく、いまはそこに住んでいるそうです。

あー、今日は感動と驚きの一日でした。

■1996.3.8(金)
火曜日に日記を書いてから何だか毎日が、あ、あ、あって言う間に今週は過ぎていった。
水曜日はクリスティーアとマレ地区の彼女推薦のカフェに向かったのだが、地下鉄のなかで予定変更。結局ユキコ邸に行きケーキを食べながら3人でお茶をした。ユキコさんは「久しぶりにフランス語喋ったわよー」と喜んでくれたし、彼女の家は本当に素敵なのでクリスティーアも感心していた。「ユキコは運がいいわね」と。クリスティーアも3ヵ月間予定を延ばしてパリに残ることにしたのだが、もうすぐ学校は終わるし、ホームステイもうんざりらしく、短期貸しの部屋を探している。だから最近の私たちの話題の中心はやっぱり家探し・・・。
木曜日、私は学校に行く前に、滞在許可書の取得で義務付けられている「健康診断」を受けるために地下鉄3号線の果てガリエニ駅まで出かけていった。この駅前は近代的な趣味の悪いビルディングが立ち並ぶゾーンなのだが、私が診察を受けるOMIという施設に行くまでの間の風景は、なんだかのどかな田舎町みたいで可愛らしい家がたくさん並んでいる。たった10分でこんなにも様子が変わるなんて・・・。健康診断はおかげさまで何の問題もなく、レントゲン・検尿・視力検査・身長体重測定・内科検診で終わった。
そしてこの日初めてフランス人向けの賃貸情報誌でいくつか部屋を見つけて直接交渉してみたのだが・・・。日本人会やオヴニーなどは日本人に貸したい人が情報を出しているので問題はないし、エグリーズ・アメリカンの掲示板もアメリカ人を中心とする外国人を対象にしているわけで、今までは何の問題もなかったのだが、やはり一般のフランス人向けの雑誌に情報を出している・・・と言うことは普通のフランス人に貸したいということ。ここでは私が外国人であること、まして収入のない学生であることは大問題になってくる。私はまず「外国人ですがいいですか?」と聞く。それだけでアウト数件。国籍を聞く人、数人。「問題ないですよ」と言ってくれたマダムはたった一人であった。彼女は親日家らしく私が日本人だと知ると喜んでいた。この物件・マレ地区22㎡6階(小さな浴槽あり)3670F見学日11日(月)学校の後に決まった。
明日はヴェルサイユ行き。

■1996.3.9(土)
今日は晴れマークが3つくらいの良い天気。今日はクリスティーア達学校の仲間とヴェルサイユ宮殿へ。一度行ったことはあるけれど、ここは何度見てもいい。帰り別れるときまで彼女は「本当に私たちは良い日を選んだわ」と言う台詞を繰り返していたが、本当にその通り。今日はコートがいらないくらいに暖かく、雲一つない快晴に恵まれたのだ。
今日一つ良い発見だったのは、ヴェルサイユという街がとても静かで美しい街だ・・・ということ。前回はジャックおじさんの運転する車で宮殿の前まで行き、そこから車で帰ったので、気付かなかったのだ。今は観光以外特に産業もない街だけれど、ヴェルサイユが政治の中心だった頃にすでに厳しい都市計画がなされているので、とても美しい街並を持っているし、センスのいい店が並び、新鮮な市場もあり、車の量も観光客の量もパリほどではなく、なかなか快適な街だ。パリから約20分、電車代も往復で21F(約420円)しかかからないので、こんな快適な街に暮らすものいいなあ・・なんて考えてしまった。
最近どんどん春らしい気候になってきて、日もずいぶん長くなってきた。朝7時すぎには明るくなり始めて、夜も7時過ぎまではなんとか明るい。学校が終わってからも明るい時間が長いと色々動けて嬉しいです。もっと気候が良くなり日が長くなったら、月のテーマを郊外にして、パリの近くの全然違う雰囲気の街にどんどん出かけよ!

■1996.3.13(水)
最近はずっと良い天気が続いている。でも昨日から気温はまた下がり真冬のように風が冷たい。これを繰り返しながら春になり、気付いたら初夏なのだろうね。
このところ私の部屋探しの情熱は衰えるどころか、ますます強まっている。早起きなんてめったにしない私が、学校の前に毎日エグリーズ・アメリカン(これがまた街の中心に在りながら行くのが面倒な所にある)の掲示板を見にいくことを決め、各情報誌は午前中の内に手に入れチェックする!最近はこれを日課にしている。今までに電話で問い合せた数は40を越え、見学も10を越えようとしている。頑張って今月中に決着をつけられたら・・・と思いつつ、でもやっぱり慌てないで本当に気にいったところを・・・と心は揺れる。今日は始めてカルチェ・ラタン地域の物件を見にいった。この辺りはあまり詳しくないのだけど、セーヌ河に近い辺りは今や観光客に占領されていて騒がしいが、パンテオンの裏手は静かな中世の佇まいを残している感じの良い静かな住宅地。最近、家探しをし始めて特に強く思うのは、観光客が観光コースにしている通りに住むのは、けっこうつらいなあ・・・と言うこと。やはり、朝起きて窓から顔を出して、ふぇーと大欠伸をしたところに、朝早くから元気な観光客(特に若い日本人観光客なんか)なんかと目があったりするのはちょっと落ち着かない。まあ、そんなこんなで私の家探しは来週も続くのでしょう。

■1996.3.15(金)
今週は全く雨が降らず、過ごしやすい一週間だった。なんだか今週は家探しもピークを向かえた感じで、少々疲れた。毎日日課のようにエグリーズ・アメリカンに通い、その他の掲示板も見て歩き、電話をかけまくり、約束が取れれば見にいき・・・、やっぱりだいぶんと疲れた。
今朝はバスチーユ界隈に一つ物件を見にいった。親日家のオーナーさんは昨夜の電話では「どんなオッサンやろー」と思うほど愛想が悪かったのに、会えば案外感じの良い人。35㎡・2部屋・3700F(管理費込み)の条件は悪くないが、やはり浴槽がなくレド・ショセ(日本の1階)で昼間でも真っ暗。ちょっとこれは陰気臭すぎる。部屋の造りは非常に面白くてセンスも良いのだけど、あまりの暗さと、今の住人の住まい方のあまりの汚さに閉口して、お礼を言って別れた。
今日は2週間ぶりのオヴニー発行の日。4件チェック、そして明日土曜日に2件アポを取った。その内の一つは期待の星。最近、あまり期待して見にいかないようにしている。いつも落胆の度合いが大きいから・・・。でも明日の所は2件とも日本人だし、浴槽もあるし・・・。
今日授業の終わりに先生からメッセージ「ミカ、帰る前にエリザベート(事務のすごく素敵なおばさま)の所によってね」と。クラスのKには「なんかしでかしたん?」と言われる始末。「いやー、身に覚えはないでー」と、彼と話すときはベタベタの関西弁になる。行ってみると何やらあるマダムが仲介人となって日本人の学生でパリでアパートを借りて暮らしている女性を、日本の留学斡旋会社の人が探しているらしく、私を紹介していいか・・・との事。「私は何をすれば良いのですか?」と聞くと「話を聞きたいだけ・・・」との事なので「いいですよ」と引き受けた。なんか良くわからないけどおもしろそう。来週の半ば位に彼女は到着するらしく、その時はっきりしたことがわかるはず。

■1996.3.17(日)
最近本当に天気の良い日が続いている。この3月中旬の季節は旅費も比較的安いしパリに来るのは良いかもしれない。若い日本人旅行者は雨後の竹の子みたいな多さだが、今は卒業旅行もピークなんだろうな。今、パリに来ている人は本当にラッキーだと思う。
今日はクリスティーアと近所のレストラン「ル・カフェ・デュ・コメルス」で昼食をとった。前から一緒に行こうと約束していたのだ。良く考えてみれば彼女とのこういう生活もあと2週間。彼女は29日にスイスにいったん戻り、4月下旬にパリに戻ってくる予定ではあるが、それはあくまで予定。お金が必要なことなので、どうなるかはわからない。ともかく彼女はいつもフランスのパンに文句を言っているので、ここのパンは特別おいしいよ、といつも話していたのだ。ここのパンは田舎風のクロパン。彼女も満足してくれた。
実はこの店のある通り、コメルス通りは私の住んでいるルールメル通りから東に約450M(2つめ)、平行に走っている。そんなに長い大きな通りではない(約700M)のだが、この15区の中ではめずらしく(?)歴史もあり下町情緒にあふれた界隈で、私はここが大好きなのだ。ここに限らず私が家を探している場所は、ツーリストがあまり来ないような、でも地元民で賑わう活気のある、下町情緒あふれる界隈。ここは本当に素敵な所。来週このあたりに家を見にいく約束がある。それはコメルス通りの一番南に小さな教会があり、そこの角を西に少し入ったところ。地上階なのだが通りに面していない(中庭側)のでそれが気にならないし、自転車の出入も楽だ。浴槽がないのだが、40㎡(2部屋)で3400F(管理費込み)は良心的だし(今より約1万6千円安くなる)、内装を新しくする工事をしているのも嬉しい。オーナーが日本人だし期待大。家具付きではないのだが、家具付きにしてもいいと言ってくれたし。
昨日の見にいった2つの物件はとても良かったのだが、一ヶ所ずつ気に入らないところがあってやっぱり決心できなかった。このコメルス通りの近くの物件は、部屋の印象がよかったら決めたいところだが・・・。私の今月のテーマ「家探し」は今月中に決着するのでしょうかねえ。もしここらに部屋を見つけたら、引っ越しは楽ね。
ところで昨年の7月以来パリ市内でテロ事件が続いていたことは、もう日本の人たちは忘れているかもしれないけれど・・・、実は今日、最寄りの駅シャルル・ミッシェルでもとうとうごみ箱の蓋が外された。と言うのも事件以来、街中のごみ箱というごみ箱、穴という穴が皆「安全の為に理解と協力を・・・」というようなメッセージが印刷されたスティールで蓋をされている(もちろんパリの人たちはそれでもそこにごみを捨てるのでムチャクチャ汚い状況が続いていた)。そして機関銃を持った警察と軍隊の人が3人1組になって街中やメトロのホームをパトロールし(私も彼らには1日に数回出会う)、メトロの中には荷物を自分の手元に置くこと義務付けるメッセージが各車両に貼られている。もし不審な荷物や箱が見つかれば車両はその都度止まり、安全確認が終わるまで動かないし、もうちょっとややこしいものが見つかると完全に路線をストップしてしまう。私も何度もそれで車両を降りたり、路線を変えざるを得ない状況にあってきた。それでも2月頃から、街の中心地から遠く離れた地域(中でも安全な地域)で少しずつ少しずつごみ箱の蓋が外され、今日とうとう最寄りの駅も・・・と言うわけなのだ。もちろん中心地ではまだ今のところ蓋はされたまま、ゴミは散らかったままなのだが・・・。ごみ箱の蓋で一喜一憂するのは大袈裟かもしれないのだが、こういう状況が嬉しい反面、私はごみ箱の近くを通るとき少しドキドキするのも本当。様々なイメージが脳裏を過ぎるからだ。やはり日本を出発する前は阪神大震災の恐怖から抜け出せずにいて、ほんの少しの振動やテレビの速報の音にびくびくしていたのと同様に、ここでの生活は地震の代わりにテロが怖い。どこで生活するのも少なからずリスクがあるのだろうから、あまり気にしても仕方ないのだが、ときどきそういうことは考えてしまう。こちらのTV報道は日本のものと少し違って、爆弾テロのニュースでも(最近世界中のあちこちで起こっているからね)その無残な死体をそのまま放映するので、そういうイメージが頭に焼き付いているのだ。なんだか暗い話になったが、私も地震の体験以来、様々な暗いイメージにつきまとわれているのは事実だ。でも人間はこういう様々な恐怖のイメージと闘いながら生きていくしか仕方がないのだろうなあ。戦争、自然災害、事故、テロ、病気など、死に直結した恐怖の体験を持つ人は皆、そうした恐怖のイメージを抱えて生きているのだろう・・・。
2~3日前に授業で先生が言っていた。今朝のニュースを見たか?ある男が機関銃をもって小学校に乱入して教室にいた数十人の子供と教師を殺して自分も自殺したという出来事があった。狂っている。でも世の中はこうだ。だから今を精一杯生きていかなければ・・・。

■1996.3.20(水)
今週はクラスに少し変動。アン先生とカトリーヌ先生が戻ってきて私はとても嬉しい。それに新しく来たスイス人の女の子ティナはとても感じがいい(彼女は4週間の予定らしい)。それとクラスを変わってきた日本人女性が2人。あとはパウラ、ケイ、アカネと私。今週のクラスはコンパクトでいいな。7人位がちょうど良い。話がはずむし、喋る機会も多いし。

最近、クリスティーアは元気がない。毎日のように話をしているが、この所少しイライラしているのが伝わってくる。原因はホームステイ。 彼女は一度、滞在先のマダムと合わなくてステイ先を変えて、今の所に移っている。今のところは、家族は皆良い人らしいが、夜中をのぞいて常にラジオやテレビの音がうるさくて困るそうだ。私としては「そうよねえ」「本当いやよねえ」とか「でももうすぐ終わりだから・・・」とつまらないことを言って励ましてあげることしかできない。だってホームステイにはいつもそういう事はつきものだものね。
だから、と言うわけでもないのだが、少しいつもと違うところへ連れて行ってあげようと思い、モンマルトルの麓、激安ショップが並ぶ界隈へ出かけてみた。国境を越えて女性の共通の憂さ晴らしは買物みたいで、クリスティーアも時々買物に励んでいるのだ。地下鉄2号線のアンヴェールと言う駅を下りると、そこには気品とか優雅さとか高品質とは全く無縁の世界が広がっている。このアンヴェール界隈はもともと生地問屋街として有名で、本当に様々な種類と品質の生地が安く手に入る。それが困じて若いデザイナー等がこの近所に店を持ったり、超安売りスーパー・タチが出来たりして安物の服の街になったみたいだ。大阪本町の衣料問屋街みたいな感じ。最近では「サンパ」という名前の店が代表するように「ストック」と呼ばれるメーカーの在庫品等を処分するような店がたくさんある。「タチ」では商品がまるでゴミのように置かれ、2Fとか3Fという値がつけられ、店先を飾っている。そこにまるで何かの競争のように様々な人種の女性がうごめいているのだ。けっこう怖いものがある。ここの商品(主に衣料品)は品質が悪いのであまり欲しいと思わないのだが、最近では日用品も扱っていてこちらの方は今度引っ越しした後に少しお世話になるかも・・・。ストック街としては他にアレジアのあたりが有名だけど、ここはそことは違ってとてもチープです。

■1996.3.23(土)
昨日は久しぶりの雨になったが、今日はまたぬけるような青空・・・。
今朝は又、電話の音が私を起こしてくれた。「ウイ?」と出ると「ミカさんとお話したいのですが・・・」とフランス語。「私です」と答えると「少しお待ちくださいねー」と日本語。そして電話に出てきたのが先週書いた留学斡旋会社のIさんだった。「今、南仏にいるのですが、明日パリに戻りますので・・・」と話は続く。何やら彼女は東京の留学斡旋会社で働いていて、パンフレット作成の為に取材をしているらしく、学校から私を紹介されたとのこと。で、明日、部屋の写真も撮りたいということで、お昼に約束をした。インタビューである。少し緊張。

■1996.3.24(日)
今日はまずIさんから電話のかかるのを待った。「(最寄りの駅)シャルル・ミッシェルに着きました」と12時前には電話がかかり、私は彼女を駅まで迎えに行ったのだが、声の感じとは少し印象の違う小さくて可愛いIさんがそこにはいた。「まずお昼を一緒に食べましょう」と言うことになり、私はお気に入りのコメルス通り教会前のカフェに彼女を案内した。同い年だということもあってか、会った瞬間から私たちは久しぶりに会った友人のように話をして、意気投合した。食事中はオフレコで話をして、取材は私の家に着いてから。まず部屋の写真を撮ってから、録音をしながらインタビュー形式で行なわれた。
Iさんは東京の有名な留学斡旋会社の人で、ヨーロッパ方面を担当しているそうだ。彼女自身は英語圏の留学経験が豊富で、もちろん英語を使って仕事しているのだが「フランス語は出来ないんです」と恥ずかしそうに笑っていた。今回の出張はフランス政府の招待で、フランスの語学学校を広く世界にピーアールするためにそういった大手の業者を集めたシンポジウムのようなものが南仏で行なわれたらしく、それに参加することと、今度10月に改訂する会社のパンフレット作成の為の取材が、主な目的らしい。来週水曜日の帰国日までぎっしりとスケジュールが組まれていて、ゆっくりする時間はないそうだ。
私たちはひとしきり話をすませて、散歩に出かけた。彼女がセーヌ河を見たいというので、私の家の近所にある「白鳥の散歩道(セーヌ河の上に造られている遊歩道)」に案内した。カフェで話し、部屋で話し、歩きながら話し、それでも話は尽きなかったが、彼女は今夜イタリア人の友人と約束があるということで、夕方遅く別れた。彼女とは色々な点で価値観が似ていて、楽しい一日を過ごすことが出来たし、昨日の緊張と憂欝はどこへやら・・・、本当に今日のこの機会を得られて良かったなあ・・・とこの偶然に感謝!

■1996.3.25(月)
今日はとうとう今月のテーマ「家探し」にも決着をつけることができたようだ。と、いうのも例のコメルス通り近くの家を今日の夕方とうとう見にいくことができ、それをとても気に入ったからだ。色々な点で妥協は必要だが、この家はバスタブがないことをのぞけば、私にとっては満足のいくものだったのだ。バスタブが無いのは最初からわかっていた事だし、地上階(日本の1階)だが中庭に面していて、この中庭の半分は私専用のものとなる。それに概して階の低い所は薄暗いものだが、ここはこの中庭のお陰で明るいし・・・それにさらに3400Fの家賃が3300Fになるかも知れず、家具も中古の物だが入れてくれそうだし・・・、何よりこの広さが嬉しい。
今日私がオーナーマダムの小林さんに主張したのは、「絶対洗濯機を置きたい!」と「家具を用意してください!」と言うことだった。置ける可能性としてはキッチンしかなく、ラッキーなことに現在大々的な改装中でキッチンにも今から冷蔵庫などを設置するところなので、私の持っている洗濯機をはめ込んでしまうことになった。「ここを出るときに買い取りますから置いていってくださいね!そうでないと困るんですよ。それ用の工事をしてもらいますからね」と渋々マダムは承知してくれたのだ。それは、そうだ。決して広くないキッチンにオーブンやら冷蔵庫やら洗濯機や等をブロックのように組み込んでいくわけだから、そこから洗濯機が抜けると組み立てたブロックは崩れてしまう。私にしても買い取ってくれるのは中古市場に出すよりも楽なので好都合なのだ。でも何でも言ってみるものよね!壁と床の改装工事は3月いっぱい続き4月から入れるようなので、4月早々にもお引っ越しになりそうだ。これで家探しも終わり落ち着いて勉強できるし(?)、大好きなコメルス通りのすぐ近くに住めるし、部屋も広くなって、1万6千円も家賃が安くなって、大満足だわあ。
それにしてもオーナーマダム小林さんは典型的なこっちの生活長いですタイプの方で、装いがスゴイ。日本語がかなり不自由になっているが、でも日本人には変わりないので楽は楽。これから又、いろいろ契約や書類の作成が必要になるのだから、日本語が通じることはかなり気持ち的に楽だ。決まってしまえば、この一ヵ月の家探しの過程が懐かしく思い出される。たくさんの知らない人と電話で話をし、たくさんの知らない人の生活を覗き見、なんだか途方も無く長い時間が流れたように感じるのだ。良い経験しました。私の手元には一冊の「物件見学(調査)ノート」が残った。これは良い思い出になりそうです。さあ、後は契約を残すのみ・・・。

■1996.3.29(金)
今週の水曜日、突然クリスティーアがスイスに残ることを決めて、そのことを私に告げて以来、私はなんだか放心しっ放しだった。彼女は昨日迄で学校の授業を終えて今日一旦スイスに戻り、大学が始まる秋までの期間を利用して7月頃まで再びパリで生活をすることを予定していたのだ。もちろん戻ってこない可能性もあるのだということは二人の間でいつも話していたが、この間の土曜日も今度部屋を借りたら、私にスペシャル料理を食べさせてくれる・・・などと楽しく話をしていたところだったのだ。しかし出発前に条件に合うスティディオも見つからなかったし、もちろん生活費やアルバイトの問題もあるし、こればかりは仕方のないこと。滞在の終盤はかなりホームステイの生活や学校(これは当たり前で、彼女は3ヵ月間ずっと私の2倍もの授業をとっていたのだ)に疲れていたし、サウジ・アラビアに赴任中の恋人と連絡がうまく取れないことも重なって、かなり辛そうだったから、彼女がスイスに帰って心の平安を取り戻せるなら、それが彼女にとって一番に違いないのだ。
水曜日はその告白を学校で聞き、いつものようにカフェでお茶をし、彼女はまた大学が始まる前に必ずヴァカンスでフランスに来るから・・・と何度も言った。昨夜は彼女が仲良くしていたエルビーというスイス人のおじさん(彼とはクリスティーアと3人で時々お茶をしていた)と3人でイタリア料理のレストランで最後の夕食を楽しんだ。たくさん笑って明日のことは考えないようにして、帰りの地下鉄の中で、彼女といつものように「ア・ドゥマン(又、明日)」を言って別れた。そして今朝も課外授業の見学に一緒に参加し、ガブリエル先生とエルビーと彼女と私とで「(ガブリエルの)秘密のレストラン」で昼食をして、そこでガブリエルとは別れた。
彼女は今朝早くにバスチーユにあるアルスナル港(セーヌ河の運河でパリのど真ん中にリゾート地のような風景が広がっている)にあるエルビー(彼のパリでの住居はここに停泊させている船)の船に荷物を移動していたので、私たちはそこで残りの時間を過ごした。ここから彼女の乗る列車が出る東駅までは地下鉄で10分もあれば行ける。クリスティーアも私もなんだかしんみりとして、エルビーは一人私たちを元気付けるように喋っていたが、もうそれはほとんど私の耳には届いていなかった。
いざ、出発という時、彼女に「ぎゅ」と抱き締められたのをきっかけに、それまで我慢していた涙がポロポロとこぼれ落ちた。彼女も涙ぐんでいた。なんだか恋人同志の別れのようだが、何度も何度も顔を見つめては抱き締めあった。たった3ヵ月だったが、私にはもう何年も彼女と過ごしたように思える。本当に不思議なことだが言葉の壁を越えて、私たちは本当に信頼できる親友だった。彼女とはもう2度とこんな風に毎日を過ごす機会はないだろう。でも別れよりこの出会いの喜びの方が大きい・・・、私のパリでの最初の親友・・・。
列車がホームを出たあと、エルビーが肩を抱いて励ましてくれた。「良い友達だったね・・・」そう、このエルビーともクリスティーアのおかげで友達になれた。彼は「アルプスの少女ハイジ」に出てくるおじいさんのような人。私たちはそのあとしばらくお茶を飲んで色々話をした。クリスティーアが慕っていた理由がよくわかった。そして私は、少し元気を取り戻し、家に帰った。
来週からまた一段と大変になる。上級クラスに進むのだ。実力がともなっていないのは自分が一番よく知っている。でもいつまでの同じ所に留まっているわけにはいかない。今は進んでいくしかないのだ。
あさって31日の日曜日はサマータイムが開始。日本との時差が7時間になる。そして来週は引っ越しも控えている。いろんな事が変わる、まるで日本に居るような春です。

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