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29/02/1996

フランス留学記 1996年2月

■1996.2.2(金)
日常生活に追われて文章を書く時間も持てない今日この頃。毎日予習ばかりに時間を取られて復習をしている時間が取れないのだ。だから昨日は夜中の2時半ごろまで、苦手の人称代名詞と中性代名詞の復習をしていた。例文をスラスラ言えるまで何度も繰り返していたのでついには声が渇れてしまった・・・。
頭では理解していても喋るとなると話は別になるのが日本人の常だが、これを克服できないといつまでも初級者の肩書きから離れられない。実はそろそろ復習のために、下のクラスに戻って余裕の授業を受けたいところなのだが、私は今のローラン先生がとても気に入っているので、ずるずるとこのクラスに留まっているのだ。正直言うとローランは最初イヤな奴だと思っていたのだが、実は語学教師としてはある意味優れた人物だと思うようになってきた。まるで添削マシーンのように、学生が何か言うたびに「マスキュラン(男性名詞)」「フェミナン(女性名詞)」「サンギュリエ(単数)」「プリュリエル(複数)」の言葉が合いの手のように飛んでくる。どんな小さなミスも聞き逃さない。そしてどんなに長い複雑な文章も正確に言えるまで何度でも言わされる。最初はこれが苦痛だったが、これはとても大切なことだとわかって来た。ヨーロッパの学生がわれわれ日本人よりも語彙が豊富で、スラスラ喋れるのは当然だが、彼らも実によく間違えるし、時制や動詞の変化、とにかく文法は苦手みたいだ。私にもこの合いの手が飛びまくるのは言うまでもありません。
あ、今日はユキコさんの引っ越しの日だ。電話でもしてみよーと。

■1996.2.3(土)
今日は目覚ましをかけないで寝ていたので、お昼まで目が覚めなかった。遅い朝食を取りながら、今日の予定を考える。今日はエスパース・ジャポン(パリの日本語新聞オブニーの発行元)で今やっている写真展「閉じた二十秒の空間」(・・・淡路出身パリ在住の写真家、S氏の震災後の神戸・淡路の写真27点)に行こう・・・と考えていたところに、電話がなった。
「アロー?」「あー、ミカちゃん?まゆみですけどー、なんでこんな時間にいるん?」「・・・?」自分から電話をしてきて「なんで、いるん?」はないやろ、と言うと「パッサージュに行かなあかんのちゃうん?」と言う。ところで彼女の用事は「今夜どっか、食べにいかへん?」とのこと。もちろんOKなので、私は逆に彼女を写真展に誘った。
写真展はエスパース・ジャポン(の図書室はとても充実している)の片隅でひっそりと行なわれていた。とは言っても前に書いた情報誌「パリ・スコープ」にも紹介の記事が出ていたし、フランス人もけっこう来ていた。そこには彼のポートフォリオも置かれていて、その経歴から彼が私の大学の先輩であることがわかった。まゆみさんはまゆみさんで彼の写真に疑問があり、彼に話しかけてみると、「関西」と「芸大」が取り持つ縁なのか、私達はすぐに打ち解けて色々な話をする事ができた。S夫妻は私のごく近所に住んでいることもわかり、重なる偶然にちょっと驚いた。
今夜はレストラン「シャルティエ」を選んだ。100F以内でかたのつくおいしいレストランをいくつかチェックしてあるのだが、こうして順番に行ってみたいと思っている。今夜の「シャルティエ」はとても有名で人気の安いレストランなのだが、私としては食事よりも空間にとても関心があった。なぜなら19世紀末風のインテリアをそのまま残した天井の高い空間だから。写真で見ていた通りの空間にとても満足しながら、今日はア・ラ・カルトにしてみた。前菜にジャンボン・ドゥ・バイヨン・アヴェク・ブール(生ハムバター添え)」メインに「ロティ・ドゥ・ボー・シュウフルール・オ・グラタン(小牛のロティにカリフラワーのグラタンソース)」デザートには「ペーシュ・メルバ・アヴェク・シャンティ(ピーチとアイス生クリーム添え)」、それにテーブルワインを取って、デザートのあとにコーヒーを飲んで、一人94F!私の心残りとしては前菜にやっぱりサラダを選べば良かった・・・と言うことだけ。おいしかったし、安いし、大満足でした。私達が店を出たとき(9時半ころ)、店の入り口には40人ほどの長蛇の列。やっぱり人気の店なんだあ・・・と感心しながら家路についた。観光客相手の店は、意地悪だし、サービスも悪いのに、高いからか、こんなに混んでいるのは見たことがない。けどこんな店もやっぱりあるのだ。こういう店に来られるようになった幸せを感じる今日この頃。

■1996.2.4(日)
今日ものろのろと昼ごろ起きだして、今月の観光企画「バス」第1回PCに乗る!に出かけた。パリ市内をそれはたくさんの路線バスが走っているが、このPCはフランス語で「小さなベルト」の略で、パリ市をぐるりと取り囲む環状道路を約3時間かけて回る路線である。大阪のJR環状線と同じで内回り線と外回り線があり、私は家からまず地下鉄で4つめの駅「ポルト・ドートゥイユ」で、このPC(外回り線)に乗り換えた。この環状道路というのは、そもそもパリが城壁で取り囲まれていた頃の名残で、そのためその道路上には「ポルト・~」という地名がたくさん残っている。その「ポルト・~」はすべてパリ市内とその外界を行き来する関所のようなものだったのだが、このすべてのポルトを通り、バスは進む・・・。今日は日曜日で道路も空いているから、本当に3時間もかかるのかしら・・・などと思いながら、ミネラル・ウォーターを握り締めて遠足気分でバスに乗りこんだ。
出発地点は、高級住宅街の中のオートゥイユ競馬場。そこから「蚤の市」で有名(1)な「ポルト・ドゥ・ヴァンブ」を通る頃には、モンパルナス・タワーが遠くに見えてきます。そしてしばらく走ると緑豊かな地域に突入。ここらの景色に見覚えがあったのは当然のことで、以前建築を見に来たことのある「シテ・ユニベルシテ」だった。各国が寄贈した大学生用の寮がたくさんある敷地で、なつかしい建物がぞくぞくと見えた。そこからまたしばらく走ると、ずいぶんと視界がひらけてくる。セーヌ河を渡るあたりは何も大きな建物がなく、鉄道の引き込み線が密集しているので、近くのベルシー周辺の様子が一望できる。ここも以前建築を見にきたことがあるが、ずいぶん風景が変わってしまった。この環状道路の内はパリ市内、外はパリ市外ということになるのだが、フランスが必死で守ろうとしているあの美しい街並みは街の中心だけで、この道路の周辺は日本の高速道路から見る風景に似ている。最悪のデザインの近代建築群、安っぽい高層ビル群に大型施設や倉庫・・・などなど。やがてバスは「蚤の市」で有名(2)な「ポルト・モントルイユ」を過ぎ、マコト氏の家の近所を通り、そして前回のパリ旅行で母と泊まったホテル「リファレンス・ホテル」の前を通り過ぎると、すぐに「ラ・ヴィレット公園」が見えてきた。ここでちょうどコースの半分くらいを過ぎたあたり。そしてモンマルトルの丘に立つ「サクレクール寺院」の頭がちょこっと見えるとすぐに「蚤の市」で有名な(3)「ポルト・ドゥ・クリィニャンクール」を通り、これからしばらくはあまり特徴のない17区に突入する。そして「ポルト・マイヨー」に到着すると、右に新凱旋門、左に(旧)凱旋門が見える。ここからはエレガントな高級住宅街の町並みが続く。そして出発点に戻ってきたので、バスを降りた。合計2時間20分。
パリの地域による風景の移り変りを知るには、バスは手っ取り早くて安くて楽しい。私も普段から時間を気にしない移動のときは、バスを使っているけど、ますますバスファンになった一日でした。みなさんもいかが?

■1996.2.11(日)
あー、なんと静かな昼下がりだろうかなあ。昨日から良い天気が続いている。絶好の写真日和かもしれないが、まだまだ寒いので出かけるのは、用事がないと億劫になる。
ところで昨日は、元クラスメートのユキコさんが家に遊びにきた。なぜ元か?と言うと、彼女はこの2月からソルボンヌ大学の外国人用文明コースに学校を変わったからだ。彼女と私は、日本にいるときのライフスタイルや趣味は大いに違うのだが、なんとなく馬が合う。彼女はいつも元気で愉快だし、早口に面白い話をたくさんしてくれるので、彼女の話を聞くことは今では私の楽しみになっている。彼女は家の近くでおいしいそうなタルトを買ってきてくれて、夕方までペチャクチャとお喋り。彼女は今度の新学期から、服飾の専門学校に通いたいそうだが、ソルボンヌはやはり文法重視の授業で「この一週間ぜんぜんフランス語しゃべってないのよー」と言っている。私も来年の学校選びは少し迷っている。5月頃までには決めて、申し込みをしなければいけないのだが・・・。
さて今日は本来ならバスの日。でもクリスティーアとお出かけをしてしまった。2月は残すところ週末は2回!モンマルトルの丘の周辺を効率よく回ってくれる「モンマルトロ・ビュス」とパリを東西に貫く「バラビュス」に乗ろうと思っている。

■1996.2.12(月)
今日はなんともひどい天気である。日本でも春一番が吹く頃は天候があれるが、こちらにもそういうのがあるのだろうか?朝から雷雨に雹と、今も台風のように風が雨戸に吹き付けている。ああ、いやだ、いやだ。でも学校の行き帰りは雨に当たらずにすんだ。
今日はローランの授業には私を含めて、3人の生徒だけ。今週はこのクラスは5人だけのようだ。相変わらず来ない日本人2人、あと新着のブラジルの女の子とクラスを変わったきたアヤコさんと私。なんとも元気のないクラスなので、ローラン先生には未練があるが、一週間予定を早めて私は下のクラスに変わることにした。明日からは少し余裕の授業で、復習をしっかりとしよう!と決心。明日からはどんなクラスかな。楽しみ。
ところでいつもここに登場するクリスティーアだが、彼女は当初3月末にスイスに帰って、秋からお医者の勉強をするために大学に入ると言っていた(彼女は医者の家系)。そのために秋までアルバイトに精を出すと・・・。でも最近もう少しパリに残りたいと言い出して、パリでアルバイトを探すつもりだと言う。スイスはEUには加入していないが、加盟国と同じ扱いを受けられるため、働いたり滞在することには何の規制もない。全く書類書類手続き手続き禁止禁止・・・の私達からすると羨ましい限りだが、私もせっかく仲良くなれた彼女が少しでも長くパリに留まってくれるのは嬉しいこと。何かアルバイトが見つかるといいね。

■1996.2.14(水)
昨日はクラスを変わって初めての日。どんなクラスかなあって楽しみに、でも少しだけ緊張してでかけた。今度のクラスはカトリーヌ先生の短い授業、それからメディアテーク、そして15分休憩のあと、アン先生の長いほうの授業という構成で、二人とも年齢不詳(40台かな?)だがとても美しい女性。とても学生から評判の良い先生なので期待していたが、その評判通りの二人だった。先生でクラスの雰囲気がこんなに変わるのか、それともこのクラスにはくせのある生徒がいないのか、どちらか良くわからないが、たぶんその両方なのだろう。このクラスは14人も生徒がいて教室は満杯。だけど授業をひっぱる生徒がいない。アカネ・リョウ・ケイ・アキコと私の5人の日本人+来ない日本人2人。そしてパウラ(コロンビア)、マルキュス(スイス)、ルイジ(イタリア)、スラフ(シリア)、メキシコのアンナとエンリケ、もう一人デンマークの女の子。こんなにいるのにまあ、静かなこと・・・。昨日はこのクラスのあまりのアットホームさに戸惑ったが、今日はなんとかしばらくこのクラスでやっていこうと心に決めた。今までいたクラスとは確実にレベルが違うことは、実感だが・・・。どんなクラスでもいいポジションさえ取れれば、やりやすくなる。だから今日はどんどん意見を発言しておいた。
これも昨日の事なのだが、マユミさんが今週の金曜日から3週間!も日本に帰郷するので、その前に会いましょうと言うことになり、授業のあと二人ででかけた。チョットお茶のつもりが、急にカルティエ・センターで行なわれている「by night」展を見にいくことになり、モンパルナスまで出かけていった。夜をテーマに様々な作家の様々な形態の作品を集めており、なかなかよかった。なかでも興味のある女性写真家 Nan GOLDIN が8台のプロジェクターを使って写真を見せているのは良かった。
昨日は他に、ようやく小切手帳を手に入れたこと・・・くらいでしょうか。
今日は日本ではバレンタイン・デーとやらですが、パリには言葉は存在(サン・ヴァロンタン)しているが、贈り物やチョコレートをおくる習慣はあまりありません。(注:2000年現在、フランスでもここ数年急激にハロウィンやヴァレンタイン、父の日、母の日の商業化が進みました)

■1996.2.16(金)
なんだかドンヨリとした今週の授業が終わった。なんだか新しいクラスではまだ調子をつかめないでいる。ただ先生は二人とも魅力的なので、それは励みになる。きっとこのまま二人の年齢はわからないままだろうけど、カトリーヌ先生はパーフェクトなパリジェンヌで、スタイルは良いし、センスも良い、笑顔も良い、授業も楽しい、ユーモアのセンスも抜群だし、頭も良い。彼女にはなんと!医学を勉強している息子(大学生)と日本語を勉強している娘(おそらく高校生)がいるそうだ。とてもそんな大きな子供がいるようには見えない・・・。少しショックだった。アン先生は13歳と7歳の息子がいると言っていた。それもびっくり。二人ともすごく上品だし、きれいな言葉を教えてくれる。これは初心者にはすごく重要なことだと思うが、先生によっては若者の流行り言葉を進んで教える人もいるらしい。例えば私達生徒が、間違いではないけれども、少々下品な表現をすると「それは美しい表現ではないわ・・・」ときれいな言い方を教えてくれる。カトリーヌは最近日本語を習い始めているらしく、アンは中国語を自分で勉強しているそうだ。頑張るねえ、みんな。
今日の授業では語学教育に関しておもしろい話がでた。例えば日本語熱は年々高まっていて公共の教育機関などでは来年の受講者もキャンセル待ちとか・・・。現代のフランスの若者は今までのフランス人のイメージを覆すほど、仕事に対しても柔軟な姿勢を取り始めている。それには大いに13%という高い失業率が影響しているが、仕事を求めてどこにで(外国)も出ていくのはもちろん、外国語の習得にも積極的だ(英語はいまやフランスでも常識なので、ここではその他の言語)。義務教育で今まで必修だったラテン語とギリシャ語は選択制になり、最近ではその代わりに他の言語を学べるようになったらしい。例えばそこでドイツ語やロシア語、中国語や日本語は人気の的。そして斜陽の一途をたどるのがイタリア語とスペイン語らしい。何故かというとやはり原因は経済力。経済大国のドイツや日本はもちろん、未知数のロシアや中国は将来的に見て有効なのではないか・・・ということだ。文化的な興味よりもビジネスが優先するところは、いかにもシビアな今の若者らしいところだ。そこで高校の教師には出来の良い生徒には(難しいし、将来有効な)ドイツ語を、出来の悪い生徒には(より簡単で役にたたない)スペイン語を取るように薦める傾向があるらしい。いいことではないが、それが現実だ。
今フランスの教育現場はたいへんな状況にある。最近では中学や高校での教師への暴力がよくニュースや雑誌で取り上げられているし、少し前になるがソルボンヌ大学でも高まる日本語熱を反映して、不足している日本語教師やそのための教室の確保を求めるデモがあったりしたし、まだまだこの国の学生は戦っているようだ。
ところで今日は久しぶりにクリスティーアとゆっくり話をしたような気がする。ったって、月曜日もお茶したなあ。でも今日はスイス人のおじさん付きだった。彼はいったい何する人かは知らないが、ガブリエル先生の知り合いのようで、来週からうちの学校で授業をしばらく受けるらしい。おもしろいことに彼のパリ滞在中の宿は舟。パリにはペニッシュと呼ばれる舟を浮かべて暮らしている人が案外多いのだが、きちんと許可を持っていて、彼らはあやしい人たちではありません。貧しさからそういう方法を選んでいるわけではなく、自由を求めて暮らす人たちだ。なぜならペニッシュとは日常生活に事欠かない設備を備えた、どちらかといえば高価な舟で、貧しい人には持てません。面倒な大家がいなくていいね、なんて笑っていたのだが、そう私もやはり理想の住居を求めていつもアンテナをはっとかなきゃね。やっぱり、短いパリ生活だから本当に気に入ったところに住まなきゃそんそん。と言うことで、夏前の引越をめざしてGOなのである。

■1996.2.17(土)
今日は今月の特集「バス」のはずだったのだが・・・、今日予定していた「バラビュス」は春から秋にかけてしか走っていないことがわかり、かわりに用事のあった友人の家まで69番のバスで出かけたのだった。(注:「バラビュス」はラ・デファンスからギャール・ド・リヨンまでパリを横に突き抜けるコースを取り、観光名所をたくさん拝めるようになっている半ば観光客向けの路線バス)
しかしこの69番線もなかなか悪くない。始発はパリの西、エッフェル塔のふもとシャン・ドゥ・マルスで、終点は友人の住むパリの東、ガンベッタ(もちろんその逆もあるのだが途中の道は少し違う)。まずアンヴァリードを右手にみながら、やがてチュイルイリー庭園やルーブル宮、セーヌ河に沿って走り、バスチーユのオペラ座が見えてきたところで少し北東に方向転換してガンベッタにむかう。帰りはバスチーユまで出るとそこからサン・タントワーヌ通り、リヴォリ通りといったマレ地区に入っていくのだ。なかなかよいコースで観光にもおススメ。
ところで帰りはルーブルで降りて本屋に行こうと思っていたのだが、リヴォリ通りにさしかかった途端気が変わって、そこで降りた。ユキコさんがリヴォリ通りの26番地に住んでいるので、もしいたら遊びに行こうと思い立ったのだ。家の真下から電話をしたら「おいでよー」って事で、楽しい夕方の一時を過ごしました!
彼女の家には2日前に始めて遊びに行ったのだが、それ以来私の引越心がうずき始めたのである。やはり短いパリでの生活、自分の最も好きな界隈に住まなきゃいけない!と思い直したのだ。今の家がある界隈は、普通の人が生活している普通の地域で、便利だし気に入っているのだが、嫌いな点もないことはない。それは近所にアメリカのような風景が展開しているところ。それに格好悪い近代建築アパルトマンが比較的多いところ。ここがもしもう少し安ければそれも我慢してもいいが、高い家賃を払って我慢することはないのだ!ユキコさんは物件訪問3~4件目で非常にラッキーな物件に当たった。彼女の希望していたマレ地区で条件の良い物件の上に大家の対応も非常に良い。それはクジにでも当たったぐらいの幸運だと思う。だからそんな事は望んでも仕方ないが、せめて好きな界隈に住むという満足が大切!!!在仏7年で6回の引越を経験しているマコト氏は4~6月が狙い目だという。私もその頃の引越を目指して頑張るぞー!

■1996.2.19(月)
今日は朝からどんどこ雪は降っていたが、結局は積もらなかった。授業の途中に窓の外は吹雪だったので期待したが、寒いだけだった。
今日は月曜日、新着学生(と言うよりは戻ってきたらしい)はドイツ人らしきおじさん(ヨルガン)が一人だけ。先週いたリョウ(イギリス留学の途中にチョット来ていたという慶応の今度4回生)はイギリスに戻り、デンマーク人のピアは国に帰った。あとのメンバー、スラフ(シリア)、マルキュス(スイス)、アンナとエンリケ(メキシコ)、パウラ(コロンビア)、ルイジ(イタリアかスペイン)、他の日本人は変わらず在籍。今週も頑張りましょう!
今日はポーズ(休み時間)の時に、クリスティーアが「放課後何するの?」と言うので「今日はチケットを買いにいくのよ。もし興味があったら一緒に行く?」と答えた。そう!パリに到着したときから気になっていた芝居が1月5日から始まっていて、3月9日までなので、終わる前に是非行かなければ・・・と思い立ったのだ。それはなんと「ロメオとジュリエット」もちろんあのシェークスピアのである。最初は、日本の芝居の料金が高いこともあって、こちらでもきっと高いのでは・・・と思い込んでいたのだが、そうでもない。この芝居は大人普通料金150F(安いよね)で、学生料金80F(信じられない安さだよね)。もちろん芝居やキャストや劇場によるが、これはそんなに安物の芝居ではないので、これを標準と思ってもいいかもしれない。信じられないことなのだが、パリは日本ほどオンラインが発達していないためか、日本のぴあのように便利なチケット販売所がない。フナックやヴァージン・メガストアなど大きなCD屋ぐらいでしか前売は扱っておらず、私はその劇場の窓口で直接購入することした。当日券で入る人ももちろん多いが、私は並ぶのはイヤだし、確実にこの公演を見たかったので、前売を買っておくことにしたのだ。それでなぜ「ロメオとジュリエット」かと言うと、魅力的なキャスティングに惹かれたのだ。「野性の夜に」「伴奏者」「ミナ」と言った作品に主演しているロマーヌ・ボーランジェという若い評価の高い女優がジュリエットを演じ、「ポン・ヌフの恋人」や「汚れた血」などに主演(怪演)しているドニ・ラバンがロメオをやる。なんとも奇妙なキャスティングではないか・・・。難しいことは良くわからないが、シェークスピアの新しい解釈を演じる機会はイギリスでも積極的に試みられているようだし、きっとこの2人がキャストされている以上、何かただならぬ気配がするのだ。ふふふ。このお楽しみは3月3日ひな祭りの午後3時~、おお!3が3つ並んだ。学生割引で豪華キャストのこの公演を80Fでゲット!
明日は冬恒例(らしい)の映画割引期間の最終日なので是非利用して見たかった映画を見てこよう!・・・と言うのも、2月14日~20日までの一週間「18HEURES-18FRANCS」というタイトルで行なわれている映画フェアは、パリ中のどの映画館でも、どの映画でも、17時~19時の間に始まる回に入場すれば、お代はたったの18F!当初は「毎日行ってやろう!」なんて息巻いていたが、それはやはり少し無理で、とうとう明日は最終日。明日は1995年のルイ・デリュック賞を取り、1996年のセザール賞に11部門ノミネートされている「NELLY et Mr.ARNAUD」を見てこよう。エマニュエル・ベアールの主演作品です。

■1996.2.21(水)
今日は月曜日からの雪は止んだが寒さはおさまらず。残った雪が凍り、足元も少々覚束ない状態だった。しかし私は朝から元気に「第二回引越・春」を目指して一つめのランデブーに出かけた。余談:今度は不動産屋を通さずに大家から直接借りる方法で探すことにした。この方法はこの国ではちゃんと確立されているものなので心配はない。ただ私は最初、フランス人の大家との交渉やトラブルを懸念して日本人不動産屋を通したのだが、何の役にもたたないことが判ったので、高い手数料はこれ以上払いたくない!というのが結論。そして先週から賃貸アノンスの情報収集を開始している。
5月末の退去を申し出たので(日本の1~2ヵ月と違い、こちらは3ヵ月前までに退去を申し出るのが義務)、まだまだ時間的には余裕がある。今日のところはモンパルナス・タワーの少し南の地区、3100Fの物件。電話で連絡を取ったとき、メザニン式だと聞いていたので少し期待していた。周辺は場所柄もあって現代建築の集合住宅が多くがっかりしたのだが、目的地の通りは小さく、少々古びた可愛らしい建築ばかり。メゾン・デュー通り4番地の共同扉を押し開けると、小さな中庭があり2階建の3つの棟に別れている。さてどれなんだろう・・・聞くの忘れたあ・・・と思っていると「ここです」の声。上を振り向くと、初めて見るI さんが二階の窓から顔を出していた。狭い階段を上りドアを開けると、これまた可愛らしい部屋。窓からの風景もまずまず。が、しかし決定的に私の心をとらえるものは残念ながらなかった。確かにメザニン式ではあるが、それはA寝台位の広さで、そこにマットを敷き、ベッドとして使うタイプのもの。「残念ですが・・・」とお断わりしたにもかかわらず、Iさんはお茶のおもてなしをしてくれた。色々と世間話をしたのだが、彼女は来る人みんなにこんなに丁寧に接しているのだろうか?いずれ私の部屋にも不動産屋と大家が人を連れてくるだろうが、私ならうんざりだ。でもきっと相性っていうのはあるとは思う。初めて顔を見た瞬間に少し話をしてみようかな・・・と感じる相性・・・。結局30分位話し込んでしまった。彼女はパリにきて二年になるらしく、そろそろ学生はやめて働くのだという。何の商売かと思えばライターだと言う。私がこれからしばらく続く部屋探し、別名「お宅拝見!シリーズ」の際、必ず訊ねようと思っている点がいくつかあるのだが、その一つは「どうしてこの部屋を出るのですか?」という事。彼女は友達と一緒に住むことになったので、それを機にもう少し広い場所に移ると言う。できれば今度は右岸に進出したいのだと言っていた。ただこの部屋は本当に気に入っていたので、できれば心から気に入ってくれる人、そして長く住んでくれる人に入ってほしいそうだ。だから何人も申し出があるにもかかわらず、彼女はのんびりと構えているようだ。なんとなくわかる気はする。
私も住みたい場所はある。しかしお金にゆとりのない外国人学生にとって部屋探しはそんなに簡単な事ではない。知人の話によると、彼女にもすごく気にいった部屋があったが、そこの大家はフランス人の保証人をたてることを強く要求したらしい。それが無理なら家賃一年分を積めとのこと。これは良く聞かれるパターンだが、彼女はそれで見送ったと言っていた。第一希望のサンジェルマン・デ・プレ(モンパルナスも入れてしまおう!すごい広範囲)はとにかく私には高い。第二希望はバスチーユ界隈(サン・タントワーヌ通り)。第3希望はオペラ地区とピガール地区の中間に位置するノートルダム・ドゥ・ロレット教会周辺。さーて今回はいったいどこまで希望がかなうでしょうか・・・ね。

■1996.2.23(金)
昨日のみぞれと、今日の雨、しばらくはこんな天気が続くのかもしれない。そうして少しずつ春が近づいて来るのかもしれない。
昨日は「日本人会」という、シャンゼリゼ通りの立派な建物に入っているコミュニケーションスペースを訪れて、そこにある貸しアパートの掲示板を見てきた。こういう掲示板があることで有名なのは、ここ「日本人会」と「ジュンク堂書店」。そしてそういった情報を載せている情報誌として有名なのはやはりダントツで「オブニー(月二回発行)」だ。あと週刊の「パリ-東京(ほとんどこういったアノンスだけの小さな冊子)」と「フランス・ニュース・ダイジェエスト(こちらはアノンスが品薄でむしろニュース誌)」と言うのがある。これらをフルに活用して今度の部屋探しは実施されるのである!・・・で、昨日の「日本人会」掲示板では、これしかない!と言うくらい私の希望を満たした物件が一つあったのだが(それも5月1日入居となっている)、まったく残念ながら「もう、決まりました」という非情な答え。電話連絡が取れるまでのかなり長い時間「今度はあそこに住めるのだわあ・・・」などと想像して楽しんでいたので、この失意の程をわかってもらえるだろうか。今日もジュンク堂書店の掲示板を見にいったがたいした収穫がなくてがっかり。今度の1日発行の「オブニー」に期待することにしましょう。5月まではまだ時間もたっぷりだし、その頃には物件情報も増えるしね!
今日は又一つ、世間は狭い!事件に遭遇した。私のクラスにKというモードをやる男の子がいる。彼はすごく受け答えがおもしろいためクラスの人気者なのだが、一昨日まで全く話をしたことがなかった。ところが私が「Kのフランス語は関西訛りが強い」と言った事に端を発し、何となく話をし始めた。今日!何と!共通の友人がいることがわかったのだ。彼は来週の29日にパリにやってくるHちゃん(共通の友人)の大阪モード学園パリ進学コースの同級生で、一年前にやって来たらしい。Hちゃんは阪神大震災の影響で一年間パリ行きを見送っていたのだが、ようやく念願のパリ入り。このK、とても二十歳だなんて思えないほど、落ち着いていて、吉本っぽい。このノリが不思議とフランス人やメキシコ人等にも通じるんだよなあ・・・。アン先生なんていつも涙を浮かべながら笑っているし、それを期待して彼を当てている時がある。
が、残念なことに彼はこの学校は3月いっぱいらしく再来週にはスキーにしばらく行くらしく授業は欠席だし、アン先生、カトリーヌ先生も再来週から2週間のヴァカンスで、その間の授業は他の先生に変わるらしく、学校は再来週からなんだかつまらなさそう・・・。
まあ、とにかく週末だわ!明日はバス「モンマルトル・ビュス」と映画「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」の予定。あさっては日色夫妻がパリ入り。

■1996.2.24(土)
今朝?は起きたらびっくり昼の1時半で、映画は見送ることにした。なんだか昨日から頭が痛かったのだが、アスピリンを飲んで元気に出発!だって今日は「モンマルトル・ビュス」に乗るのだ。このバスの利用の仕方は普通の路線バスと何ら変わりはないのだが、複雑に入り組んだ地形に対応するために少し車体は小さめで、特別に「モンマルトル・ビュス」と言う名前とサクレクール寺院を模倣したマークを与えられている。コースはほんの短いもので、ピガール~18区役所前の地下鉄の駅で言うと4つ分だけ。ピガールというと夜の歓楽街でなんとなくあやしい雰囲気のイメージがあるが、ここはモンマルトル地区の入り口にあたり、ここからサクレクール寺院のあるモンマルトル丘の頂上まで登り坂が続く。あとはまた下り坂。
モンマルトルは私の大好きな19世紀末文化の中心地であった所だし、下町っぽい情緒にあふれた界隈なのだが、観光名所としてのイメージが先行してあまり好きではなかった。でも実際にゆっくりと訪れてみると、やはり色々なことがわかってくる。観光客がうろうろしている地域、観光客目当ての絵描きや物売り、商店のある地域は、ごく限られた地点で、あとは普通の生活空間が広がっている。新鮮な食材を並べる商店が軒を連ね、カフェの値段も良心的。排気ガスの臭いもあまりしない。何よりも19世紀末の雰囲気を伝える街並が良い!サクレクール寺院よりも北の地域は、今日始めて歩いたのだが、ごく普通の庶民が生活をしている活気のある街で、私は一目惚れをしてしまった。だから先日書いた、今度の引っ越したい地域のリストに是非ここを加えようと思う。18区なんて今まで考えても見なかったが、家に帰って今までの資料を調べてみると、それがけっこうあるのだ。特別安くもないが高くもなく、物件の数はそこそこあるし、ここならなんとかなるかも・・・。
サンジェルマン・デ・プレは洗練されたスノッブな地域。カフェの値段も立派なものだ。憧れの街だが、でもとにかく物件はないし、高すぎる。バスチーユ界隈も今はすっかり物価高。残るところは9区のノートルダム・ド・ロレット教会周辺、ここは安めだが品薄。マレ地区も物件はけっこう出ているが、高ーい。目下の興味は部屋探しなので、ついこんな話になってしまうが、とても楽しいのです。せっぱつまっていない部屋探しってすごくおもしろい。本当の所は住んでみなければわからないだろうけど、住むのにどうだろう・・・と言う観点で街を見渡すことがおもしろいし、部屋をたくさん見て歩くことも外から見ているだけではわからない事がいっぱい見えてくるもの。例えばパリの街を構成する街並は周知のものだが、それはファサードのデザインが創り出す表面上の構成。その共同扉の内側がどういう風になっているかは、本当に千差万別で、足を踏み入れないと決して知ることはできない。この共同扉はすべて暗唱コード付きだが、そのほとんどが昼間はブザーを押せば入れるようになっている。パリの秘密はここにある!と私は断言したい。パッサージュ然り、足を踏み入れて始めて知ることの出来る事実。いつでも、どこにいっても、私は心をときめかしながらこの共同扉を押し開けるのです。

■1996.2.26(月)
昨夜遅くに日色氏から連絡をもらい、無事到着したとのこと。そして今日は、今年の年末に一般公開予定の「新・国立図書館」を特別に見学できるということで、私も連れてってもらえることになった。
この新・国立図書館は1989年にコンペティションが行なわれて、フランスの若手建築家ドミニク・ペロー氏案に決まり昨年完成したものだが、まだ現・国立図書館からの資料の引越が終わっていないので、一般利用者は中には入れない。パレ・ロワイヤルの横にある現・国立図書館はそのあとどうなるのかは知らないが、増え続ける資料を収めきれなくなったための移転とか。(日本の国会図書館と同じで、出版されるすべての出版物はここに収められることになっている)私もこの案をCGや雑誌で見たときは「ああ、なんてかっこいいものが出来るのだろう・・・」と思っていたが、実際は・・・そうでもない。長方形の広大な敷地の四隅に高さ80Mのガラスの塔がそれぞれ建ち、その4つの塔を結ぶ低層部が図書館部分、そしてその内側が広大な庭になっている。この設計を担当したドミニク・ペロー氏の事務所から英語の出来る所員ディノ氏がやって来て、私達を案内してくれた。日色夫妻はやはり建築家なので、積極的にディノ氏に質問をし、写真を撮りながら、ディテールのデザインなどにも頻繁に感心の声をあげていた。確かに木材と金属素材の混在するインテリアはなかなかおもしろいかも。それにしてもこのまだ何もない誰もいないがらんどうの図書館よりも、やはり本が並び、人が行き来する生きた空間を早く体験してみたいと思う。(注:この時点では、この私が数年後にここの研究者用スペースにアクセスできるようになるとは夢にも思っていなかった) でもオープンしてからも一般利用客が見られないところをたくさん見られたので、それはおもしろい体験でした。
そのあとこの近くにあるペロー氏の事務所を訪ねスタッフの仕事ぶりを拝見し(残念ながらペロー氏はいなかった)、立派な資料をいくつか(私にまで)頂き、そしてディノ氏に見送られ事務所を後にした。次に日色夫妻は少し歩いた所にあるレンゾ・ピアノ氏設計のショッピング・モールを見に行くと言う。
この界隈ベルシー地区は、今活発に再開発が行なわれている地域で、言いかえればパリ市内でもっとも再開発が遅れていた地域である。パリ市の中心地は世界文化遺産にもなっているので,街並が法律で保護されており、国家プロジェでもない限り現代的なデザインの建築物は受け入れられない。今の建築家が手腕を揮えるところといったら、パリ市の端の方、例えば今ならこの辺りだ。だからこの辺りは若い建築家にとっては注目すべき場所なのだろうが、例えば私のように古いパリが好きな人間にとっては残念な風景でもある。私が知り得るここ数年のパリの様子からも、こういった景観がだんだん中心地ににじり寄って来ているのは確かだ。それは仕方のないことなのだが・・・。
私達はそのあとバスでマドレーヌ寺院まで出て、そこから歩いてお気にいりのレストラン「シャルティエ」へ(このレストランはいろんな人に試してもらっているが評判がいいので)、途中私の得意のパッサージュをいくつか紹介しながら、向かった。パッサージュもレストランも気に入ってもらえた様子で、私も満足です。日色夫妻はあさってパリを離れてフランスの各都市をまわって7日にパリに戻ってくる。それでは良い旅を!

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