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31/01/1996

フランス留学記 1996年1月

■1996.1.4(木)
今日は久しぶりに晴れた。晴れて引っ越し完了の日だ。
入居可能になった2日には不動産屋と家主と借り手の私とで「état des lieux」が行なわれた。何と訳せば良いのか?直訳すれば「住居の状態」だが、家主と不動産屋と借り手が三人揃って物件状態の現状証明書を作成する。一緒に確認しあい、退去時にトラブルが起きないようにする制度とでも言えばいいのだろうか。例えば家具や食器は何があるとか、壁や床の汚れや傷はすでにこれだけあるなど。また修理する必要のある点がこの時点で確認されれば、修理費は家主が持つことになっているが、うちは大体の点でbon état(良い状態)と判定された。家主がほとんど顔を出さない日本とは違い、家主とは入居日までに何度も顔を合わせるのがフランスのやり方だ。その後、鍵を受け取りこのアパルトマンはようやく私のものとなった。ちょうどその時にフランス・テレコム(電話会社)のお兄さんもやってきて電話工事 も無事終わり、そして私は慌ただしく学校へ出かけていった。
少し遅れて教室に入ると、クラスの雰囲気が違うので驚いた。少しメンバーが変わっている。先週から引き続きいるのが、ユキコさん、ジュンコさん、アカネちゃん、マサトシ君、それから初めての顔がイスラエル人のおじいちゃんジョゼフ、ロンドンから来ているマユミさん(彼女は前からこのクラスに居たらしいが、私が着いた週はロンドンに帰っていて居なかった)。先週いたヨシナリ君はもう来ないし、ドイツ人のトステンは来週まで休暇で国に帰っている。今週からクラスのレベルがひとつ上がり、授業の進度がぐっと早くなった。ついていけるか少し心配。
そんなこんなでこの三日間、午後は学校へ行き、空いた時間に少しずつ荷物を運び、今日の午前中にサンジェルマンのステュディオをチェックアウトして、完全に私は15区の住人となった。これでようやく落ち着いた生活ができる。嬉しいかぎりだ。新居は一応、床暖房になっていて暖房をつけなくても寒くない程度に保たれている。2月頃になれば少し寒いかもしれないけれど、今のところは大丈夫。部屋は約10畳の主室と2畳ほどの台所、2畳ほどの物入れ、それから4畳半ほどの風呂場がある。大きな窓があり明るく、窓からの景色は特に自慢できるものではないが目の前の視界は開けていて気持ちはいい。なかなか快適な私の城だ。
このアパルトマンのあるルールメル通りは、ちょうどエッフェル塔あたりのセーヌ河と平行するように北東から南西へとのびる長い通りで、うちから5分くらいこの通りを北上するとグルネール大通りと交差している。このグルネール大通りには水曜日と日曜日の週2回、マルシェがたつ。今度の日曜日に一度偵察に行ってみよーっと。

■1996.1.5(金)
気持ちのいい朝だった。でも私は眠たくてもう一度時計を抱きかかえて眠ってしまった。あわてて宿題をして、パンを握りしめて、家を飛び出した。昨夜も遅くまで部屋の片付けをしていたのだ。
今日はジュンコさんが最後の授業日なので、クラスの女5人組で学校近くのおやじカフェの一角を占領してペチャクチャおしゃべり。立ち飲みのおやじ達は不思議そうに私達を見入っていた。話を聞いて見るとみんな感じの良い人で、キャリアも様々。仲良くなれてうれしい限りなのだが、ジュンコさんは2週間後に日本に帰るし、ユキコさんは2月から別の学校へ行ってしまうし、マユミさんは4月になればイギリス人の旦那様とロンドンに帰ってしまうし、8月まで残るのはアカネちゃんと私だけ・・・。まあ、残念な反面、いろんな人と知り合ういい機会だし・・・。マユミさんがロンドンに帰ったら是非遊びに行きたいなあ。
最近街のパティスリー(お菓子屋さん)はガレットというお菓子を山のように積み上げている。12月の終わりの頃から見かけ始めたが、大小様々な大きさの円形のお菓子で、特別な装飾はされずにこんがりと焼きあげられている。味はスィートポテトパイのような感じ。なんだろうと思っていたら、1月6日はキリストの御公現にあたり、「諸王の日」とも言われる祝日だそうだ。この日は親しい人の間でこのガレットを食べるのだが、このお菓子の中にはあらかじめ小さな陶製の人形が入れられており、それが入っているピースに当たった人は、買うとついてくる紙製の王冠をかぶって祝福されるのだ。なんだかよくわからないけど、楽しそうなので試しに買ってみた。さっそく人形が出てきてニンマリ。おいしくいただきました。
明日は晴れたらポリスにでも行ってこようかなあ・・・。おやすみなさい。

■1996.1.6(土)
がーん。やはり今日も朝は起きられず、ポリス行きは来週に延期。
さて週末は完全週休二日制の今の私。勉強も大切だが、私には街歩きも大切な課題。留学前の旅行で、おおよその見たい建築や行きたい観光名所は行ったけれども、今回の滞在中にはそういったところだけではなく、もう少し違った視線で街を見なおしたいなあ・・・と考えてみた。その結果、週末の過ごし方にひとつのアイデアが浮かんだのだった。それは1ヵ月ごとにテーマを決めて、カメラを持ってそこを経験しに行くのだ。例えば、1月のテーマは「パッサージュ」
・・・ということで今日は午後からパッサージュ巡りだ。と言ってもそれほど資料があるわけではないので、わりと今月は大変かもしれない。とりあえず今日は、すぐ近所から出ている42番線のバスに乗ってオペラまで出て、パレ・ロワイヤル周辺にあるパッサージュを9箇所(ここは特に集まっている所)訪れた。パッサージュは日本の商店街のアーケードと同じと思っていい。だいたいが18世紀末~19世紀半ばに建設ラッシュをむかえたが、これも一つの流行で、流行らなくなって閉鎖されたところも、オスマンの都市計画で取り壊されたところも多々ある。そんな歴史の荒波(?)を越えて生き残っているものは、みなそれぞれに個性があっておもしろい。ほとんどがその当時の貴族の館の一部を使用しているものが多く、床は普通の石畳ではなくだいたい大理石で出来ていてだいぶすり減っている。その当時の情景をあれこれと想像しながら歩くことはなんとなくゾクゾクするような楽しみではある。ベンヤミンの「パッサージュ論」という本を日本から送ったが、早く読みたくなってきた。それを読んでからの方がより楽しみが倍増したかもしれないけど・・・、今日は久しぶりに写真を撮る手がよく動いた。この話はまた来週へ続く。
明日は近所のグルネール大通りに立つ朝市に買物に行くくらいの予定。来週の予習もしなきゃあ・・・。

注:残念ながらパッサージュの写真はまったくデジタル化ができていません。ここでお見せできないのが残念です。

■1996.1.9(火)
昨日の朝、ミッテラン元大統領が亡くなった。当然のように、こちらのテレビ番組は追悼特集を組み、彼の死を悼んでいるようだった。私の国の大統領ではないにしても、私にも馴染みのある有名な政治家だっただけに、私までもがなんだかとても悲しい気持ちにさせられる。自分の病を知り、自分の好きな場所に墓地を用意していた彼・・・。木曜日にバスチーユ広場で追悼の式が行なわれるらしい。
さて私はといえば、昨日は朝から部屋の電気が飛び不動産屋に電話をしたり電気屋が来たり、回復はしたけれどもどうも調子が悪いので今日も電話をしたり・・・結構大変だった。
そんな中、昨日はべらぼうに天気が良かったので初めて学校に自転車で行ったのだが、やはり30分はかかる。パリは一通が多いし、車の運転を知らない私が車道を走らなければいけないのは、結構大変だってことに気付いた。(注:パリでは自転車は歩道を走れません) でもいい運動になる。
とにかくその通学路が「絶景」なのである。行きはずっとエッフェル塔を目標に走り、そしてその股をくぐり抜け、そしてセーヌ河を渡り、シャイヨ宮をよじ登り(?・・・階段が大変)、高級住宅街を駆け抜け、帰りはギマールやペレの建築群を通り抜け、エッフェル塔を横目に見ながら自由の女神を拝んで・・・、と言った感じ。パリでの自転車はまだまだ私には扱いにくいものだけど、時々立ち止まってセーヌ河の夕焼けに感動するゆとりのある良い乗り物。ただ、最近きちんと舗装された車道も多い中、15,16区の古い住宅地はまだまだ石畳がたくさん残っていて内臓がひっくりかえりそうな振動です。
最近は毎日ワープロを開ける余裕もないほどに授業の予習がたいへんになってきた。授業は難しくても私には楽しい。このペースで行ってしまうと、あっという間に中級のテキストも終わりそうだ。おそろしい。

■1996.1.9(水)
今日も雨降り。今朝は又、待つことから一日が始まった。先週DARTYで1790Fの洗濯機を購入して、それが今朝8時の約束だったが、届いたのは11時。ようやく洗濯ができるう!とワクワクして学校へ出かけたのだった。
今日は授業のあと、マユミさんと学校の近くのシケたおやじカフェ (の、良い点は常連しか来ないところ。それから値段が安い) で話し込んだ。マユミさんは関西出身で7年前からロンドン住む既婚女性(旦那はイギリス人とフランス人のハーフ)で、写真をやっている。「関西」と「写真」がとりもつ縁とでも言おうか・・・今のところ私がパリにきて一番関心を持った人だ。彼女の写真は、彼女のファションセンスとは全然違って、優しい湿気にあふれたアジアチックなものだった。私はこういう写真を撮るマユミさんがますます好きになった。3月にロンドンへ帰ってしまうのは私にとっては残念でしかたないけど、それまでまたゆっくりと話をしたい人だ。

雑談:カフェで安く長居をするために、最も安いカフェ(小さいカップのエスプレッソ)を注文するのがいいが、これはエスプレッソなので当然ながら苦い。だからこれにほんの少しのミルクがはいった「ノワゼット」を注文することを私は最近覚えた。これは友人に教わったことなのだが、通常メニューには載っていない秘密の策なのである!
最近少しずつ私のポストに手紙が届くようになった。それはまるで贈り物が届くみたいに嬉しい。それにパリにも日本と同じで、ポストに広告を放りこんでいく宣伝方法があるけれど、これも私の楽しみの一つ。まずこちらには配達される朝刊というものが存在しない (日本でも私は新聞をとらないが・・・)。したがって、あの、時には迷惑な折り込み広告というものもないわけだ。だからこの方法は近所の店で何が安いとか、そういった情報収集にはとても有効。ピザの宅配広告も日本と同じくらい頻繁に入っている。しかし大型スーパーは定期的に(今週の奉仕品みたいな)小冊子を作り、各店舗に山積みする方法もとっている。

雑談2:私の感想からすると、スーパーで売っている食料品のサービスに関して日本と違う点は、単純に値段をひくのではなくておまけをつけたり、増量したり、「何フラン還元」とかいうクーポン券をつける方法が大好きみたいだ。
今日は家に帰ってから、近所のブリコレックスという日曜大工屋に目を付けている商品が2つあったので、広告を握りしめていそいそとでかけていった。でも他の「広告の品」は山のようにあるのに、私の欲しい商品だけがない。店のおじさんに訊ねると「朝は山のようにあったのに、売れてしまったよ」とのこと。やっぱり広告の効果は絶大なのだった。(これは単純に値段を安くする方法)
さて肩を落として戻ってきた私を待っていたのは新品の洗濯機。さっそく試しに使ってみよう!と、どうなってもいい靴下から放りこんでみた。この前のステュディオについていたものと同じ方法なので、使い方はわかっているが、回りだすまで本当にドキドキした。なんとか順調に動きだしたので、安心してその場を離れたものの、しばらくして館中の人がびっくりするほどの爆音を出し始めたので、驚いて見に行くと70キロほどもありそうな巨体(こちらの洗濯機は異常なくらいにがっしりと作られている)が、元あった場所から30センチも飛び跳ねてそこにある便器を押し退けようとしているのだった。この信じられない光景をどうやって伝えたらいいのだろうか・・・。私はとっさに火事場の馬鹿力を出し、あばれる洗濯機を便器から2センチくらい離したあと、スイッチを切ればいいことに気付いた。とりあえず、スイッチを切り、おとなしくなった洗濯機の前にしゃがみこんで、私は考え込んでしまった。この目の前の現状がどう考えても理解できないのだ。結局、途中でやめる訳にはいかないので、恐る恐るスイッチを入れると何事もなかったかのように動きだしたが、私は残りの40分あまりを洗濯機の前で過ごすはめになった。(こちらの洗濯機は日本製品では考えられないほど時間がかかるのです)

雑談3:これは配達の人が洗濯機の空洞部にあるスチロールを抜き忘れたことが原因だった。あたり一面にスチロールの破片が飛び散っていたのだが、それを抜き取るとあたりまえの洗濯機になってくれた。
おととい部屋の電気がとんで以来(この問題は根本的には未解決)、なんだか色々大変だあ!!!

■1996.1.14(日)
今日はすごく天気がいい。ここ数日とても暖かかったけれど、とくに今日は春先のような陽射しだった。カフェなどの店先に出ているテラス席というのは、冬になると片付けられる・・・という話を読んだことがあるが、今年の冬が例外なのか、最近の傾向なのか、それはわからないが、今もいっこうに片付けられる様子もなく、この数日などは暖かさのおかげで逆にテラス席が盛況だったりする。
この数日も慌ただしく過ぎていった。木曜日、シャワーが壊れた。先週の電気ぶっとび事件は結局電気量に問題があるわけではなく、台所の電気コンロに問題があることが判明して、コンロとシャワー両方、不動産屋を介して大家に交換を交渉中。
土曜日は第二回パッサージュ探検にでかけた。前夜、ミシュランの青地図パリ編でパッサージュを虱潰しに探した。そりゃ、きっと見落としているところはあるだろうが、驚くべき数のパッサージュがあることがわかった。今月だけですべてを見尽くすことはとても無理だが、界隈ごとに固まって残っているので、お散歩気分で楽しめる。パッサージュと名前がついていても、いわゆるガラスの屋根がかかっている商店街ではなくて、単なる通り抜け道であることも多いし、完全制覇も夢ではない(?)。先週はパレ・ロワイヤル周辺の12本、そして昨日もモンマルトル通り周辺で12本のパッサージュを見学したが、それらは中でもまだ、知られているほうで観光客らしき人もパラパラ。写真を撮る私を見て親切なムッシュウが「ギャルリー・ヴェロ・ドダに行くと良い、あそこはもっときれいだから」と教えてくれた。「もう、行きました」と答えたら肩をすぼめて手を振って去って行った。ありがとね、おじさん。
今日は、ジュンク堂書店のアノンスで見つけた炊飯器(電話をかけてまだ残っていたのでゲット!)を受け取ることになっていて、昼ごろ彼女の家に赴いた。炊飯と保温機能で200F(約4千円)は中古でも安い!何しろアジア製の保温機能のないもので400~500F、日本製の保温機能付きで1200Fだもの。今夜はこれでこちらにきて初めての日本風に炊いた御飯をいただきました。お米はスーパーで買える1キロ5F(約100円)のお米。こちらでは米はサラダに使ったりするので、パサパサするものが基本。一番安い米はこの基本に反しているから安い訳で、炊くと日本風に粘りが出る。値段のことを考えれば、これで十分満足。ああ、おいしかった。

■1996.1.16(火)
今日も昨日に引き続きとても天気が良い。学校への自転車通学も気持ちが良い。
さて昨日の月曜日からまたクラスメートのメンバーが大幅に変わった。毎月曜日は新しい学生達がやってくる。先週から引き続きいるのは、イスラエル人のおじいちゃんジョゼフとスイス・ジャーマンのクリスティーア、日本人のマサトシと私。新しくやってきたのがイタリア人のルドルフ、ブラジル人のパトリシア、ラファエラとバルバラの3人娘、そして他に日本人3人がいる。結局仲良くしていたみんなはクラスを変わってしまい、私だけがこのクラスに残った。出会う機会が減って残念だけど、おかげで私はクリステーアととても仲良くなった。休み時間にも色んな国の人と話す機会が増えた。どこの国の人もやはり人数が多いと固まりがち。だからきっとこれで良かったのです。

■1996.1.20(土)
1月に入って3回目の土曜日。いつもなら土曜日はパッサージュ探険の日なのだ。来週の最終回にむかって着々と見学を進めていくはずだったのだが・・・。木曜日に クリスティーアが、パッサージュを見た いと言い出して・・・と言うのも、だいたい週明けの授業というのはウィークエンドをどう過ごしたか?という話題から始まり、週末の授業の終わりというのはウィーク エンドをどう過ごすか?という話題で終わるのだが、その都度私が「パッサージュ」 と言うので、彼女も興味を持ったというわけだ。パッサージュの姿を知っている人は案外少なくて(毎週、新着学生もいるし)、その話題が出るたびにローラン先生(彼は本当によくパリのことを知っていていつも驚かされる)と私は説明を強いられている。それで今日は彼女と1時に待ち合わせをして、今日のメニューをこなす予定 だったのだが、見学予定地セバストポール周辺のパッサージュは完全に休んでいるところが多く、門扉までもが閉められ、通り抜けることも出来なかったのだ。まあ、そうでなくても今日は天気がとても悪くて、いい写真も撮れなかっただろうが・・・。私は彼女に典型的な印象の良いパッサージュを見せてあげたくて、先週行った所のいくつかを案内した。そして私たちはそのうちの一つ「パッサージュ・デ・パノラマ」の中 にあるサロン・ド・テ「ラルブル・ア・キャネル(すごく古 いインテリアを残している)」で4時間も話し込んでしまった。フランス語を学んでいるもの同志だから勉強の話はもちろん、お互いの国や文化のこと、家族や友人の話 、映画の話、人生観など、さまざまな話題を通してよくわかったこと、それは私たち は価値観がよく似ているということ。お互いまだ言葉が不自由なので時々言いたいことが伝えられなくてもどかしい思いもするけれど、ほとんどの事はわかりあえる。と いうことで今日は新にパッサージュを見ることは出来なかったけれど、彼女とますます良い友達になれてよい一日でした。

■1996.1.21(日)
今日は久しぶりの太陽がでた。久しぶりに早起きの日曜日なので、今朝は近所のグルネール大通りの高架下に立つ朝市に出かけた。前にも書いたが、この通りのデュプレックス駅からモット・ピッケ駅までの約500メートルの間に本当にたくさんの店が 出るのだ。この朝市はパリでもかなり大きいほうじゃないだろうか。
野菜、果物、魚、肉、惣菜、チーズ、ワイン、パン、菓子、衣類、金物、布、アクセサリー、 本、雑誌・・・等ほとんどの用は足せる。もちろん誰もが食料品を一番の目当てにしているのは言うまでもないけど・・・。変なものではベッドのマットレスも並べて売っている。どうやって持って帰るのかなあ。今日はついでに音も録音してみたが、威 勢の良いおやじの声がたくさん拾えた。そして何といっても今日の収穫はムール貝で 、こちらに来て初めて買った。これは1キロ13F(\260)。それから日本と同じ種のみかん 。こちらは500グラムで5F(\100)。それからプリプリパンパンのバナナ。これは1キロで8.8F(\180)。果物はほんとうに安くておいしい!とにかくいつも思うことは食品が素朴できれいだということ。
ところで私はこんなきれいな食品と共に、そこで働いている人を見るのがとても好きだ。よくフラ ンス人はあまり働かないような印象を持たれがちだけど、この人たちを見ていたらそんなことは絶対に口に出来ないはず。たしかに都会の労働者達はあまり愛想がないが、朝市で働いている人たちこそが本来のフランス(パリではなくてフランス)の姿のような気がするのだ。彼らはバカンスとかお洒落とかにおよそ縁がないように見える けど(忙しそうで)、みんな食品同様生き生きしている。今日は足先から深々と冷える一日だったけど、朝市のおかげで気持ちの午後を過ごしました。

■1996.1.23(火)
今日は昨日に引き続いて雨。私は昨日に引き続いて銀行へ・・・。と、いうのも、こちらはまだまだ小切手社会。私にとっては慣れない習慣だが、フランスで長く生活するのには、フランスでの口座の開設が求められている上、小切手がないとお話にならないことが、だんだん身に染みてわかってきた。お店での買物にはカードがあれば問題ないのだが、家賃の支払いはやはり小切手払いが主流。とにかく月末の家賃の支払いが迫っているので、いよいよ重たい腰をあげて、行動開始・・・だったのだが・・・。オペラ座の近くにT銀行がある。私は日本人だからフランスの銀行より楽に口座が開けるかなあ・・・などと余計なことを思い、電話で問い合わせをしたら「滞在許可証があれば口座が開けるし、2週間後には小切手も発行できます」とのこと。それで昨日はわざわざ朝から出かけていったのに、窓口に並んだ末に言われたことは「学生さんには小切手は発行しておりません」。そんなことなら電話で言え!まったくいつもT銀行は頭に来る。午前中をこれで無駄にしてしまった。・・・と言うことで、今日は学校近くのクレディ・リヨネ銀行で口座を開いた。それはそれはあっという間の出来事だった。必要な書類は滞在許可証 (私は今朝ようやく警察署で受け取った)とパスポート、賃貸契約書と公共料金の請求書など。10分くらいで口座開設の手続きは終わった。小切手も10日後くらいにはくれるらしい。まったく不可解。外国人にも簡単に小切手を作ってくれるフランスの銀行と日本人に冷たい日本の銀行・・・。ま、これで家賃の支払いも大丈夫!
昨日は新着学生が2人。バカンス(夏休み)で来たオーストラリアの高校生と日本人のメグミさん。マサトシが去ってジョゼフが休みだから人数は変わらないっす。

■1996.1.24(水)
今日はクリスティーアと映画に出かけた。昨日、彼女が誘ってくれたからだ。彼女も映画は割合好きなようで、二人でよく映画の話をする。
日本ではほとんどの新着映画は土曜日から公開されるが、フランスではそれが水曜日。それに合わせて日本の「ぴあ」のような情報誌は水曜日に発売される。「パリスコープ(3F)」と「ロフィシエル・デ・スペクタークル(2F)」と言って、ともにポケットサイズで破格の安さ(\60に\40)。この中にその週にパリで行なわれるすべてのイベント情報(映画・演劇・コンサート・展示会などなど)が盛り込まれている。ついでにレストラン情報や観光名所の場所や料金などの情報も・・・。なんとも良心的な企画だ。と言っても日本の雑誌のようにヴィジュアル的に楽しめるものではないので、フランス語がわからないと少し欲しい情報を探しにくいという欠点はあるけど・・・。もともと日本とは宣伝の仕方も違うし、値段も違うし、まず人々の映画に対する意識も違う。日本では力の入っている(お金のかかっている)映画は、うんざりするほど宣伝を見せつけられるが、こちらではどの映画もポスターのみ。メトロの構内や街角の広告塔が有名だけど、私はだいたいそれで観たい映画はチェックしている。フランスでは「批評」がとても重要な位置にある文化なので新聞や専門誌の批評もおおいに参考にされている。入場料は大人で45F(\900)前後(場所によって若干の違いがある)。もちろん学生は学割があるし、その他にもいろいろと配給会社が割引サービスを行なっている。他にも週に2回も割引の日があること。毎月・水曜日は正規の料金から10Fも安くなる。こんな訳で映画は非常に手軽な娯楽として庶民に根付いている。映画館に取りあえず来てみて「今日はどれにしようかなあ・・・」なんて人も多いのだ。
で、今夜は(クリスティーアは何でも良いと言うので)私のチェックしていた映画、ヴィム・ヴェンダース監督の新作「PAR DELA LES NUAGES」(仏・伊・独共同)を選んだ。この監督の映画は私には難解なことが多くて「わかるかなあ・・・」と思っていたが、有名俳優がたくさん出ているし、言葉が100%わからなくても美しい映像と音楽で楽しめるオムニバス映画だった。ただし雑誌等の評価はあまりよくありませんが。

■1996.1.26(金)
今朝は久しぶりに7時すぎに起きて(私には早起き)、9時過ぎには家を出た。何故かというと、昨日学校の帰りにEDF(電力会社)の窓口に支払いに行くと、支払いは午前中のみの受付けらしく、払いそこねていたのだ。重ねて支払い期限が今日までだったので、学校の前に行っておかなければならなかった。
支払いを終えて、私は「課外授業」の集合場所に向かった。これはだいたいどこの語学学校でもやっているが企画だが、色々な所へ教員が引率して連れていってくれるのだ。私の参加できる課外授業は週に2回で、月曜日(いわゆる講演)と金曜日(美術館見学など)。今までなんやかんやと忙しかったり、起きられなかったりで参加してなかったけど、これからは金曜日は絶対に参加しようと思っている。だって無料で美術館に入れて、なおかつ先生の説明付きだもの。参加するしかない。しかしこのお得な企画に参加する人は割合に少ないのです。さて8月までにどれくらいの美術館を回れるかなあ。
今日の見学先はマレ地区にあるピカソ美術館。この美術館に収められている作品は、ピカソの死後、相続税(相続の50%)としてフランスに収められたものだそうだ。日本を出る前にフランスのこのような戦略を特集したテレビ番組を見たが、まったくその典型みたいなものだ。フランスは昔から芸術家にかなり優遇的な処置を施しているが、それは芸術家を育てるのはもちろん、その死後までを見込んでいるという。さすが・・・である。ところでピカソなんて誰もが知っているけれど、実はあんまり知らないんじゃないかと思ってしまった。私が不勉強なだけかもしれないけれど、彼の作風の変遷を追った展示は、私の知らないピカソをたくさん教えてくれた。
今日は家を出た頃から雪がちらちらしていたけど、待ち合わせ場所のメトロの駅から地上に出たときにはうっすらと雪化粧。見学を終えて外へ出たときには完全に積もっていた。初めての本格的なパリの雪でした。寒いよー。

■1996.1.27(土)
今日はパッサージュ探検、最後の日である。先週訪れたセバストポール、サン・ドニ方面を中心に8ヵ所見て回ったが、その内本物のパサージュは4ヵ所。あとはただの通り道だったり、もうすでに死んでいて牢獄のようだったり・・・。今日行った辺りはかなりあやしげな地域なので、観光客が暗くなってからひとり歩きするのはやめておいたほうがいいが、昼間は活気のある普通の人が生活しているところ。しかしサン・ドニ門を越えて北上すると、そこはパリでもっとも有名な娼婦が立つ通りとなる。(注:2000年夏、ここに滞在したときには、すっかり娼婦の姿は消えていました)映画などでは見たことがあるが、実際に行ってみるとすごく不思議な世界だ。パリ最大の歓楽街としてはピガールあたりが知られているが、ここサン・ドニにはいかがわしい風俗産業の店など何もない。風俗店なら観光名所のマドレーヌ寺院の近く(日本人がたくさんお土産を買いに訪れる「フォーション」という高級食料品店の周辺)にもたくさんかたまって存在している。それなのにどうしてサン・ドニなのかなあ(この伝統はかなり長く続いている)。今日も雪がちらつくとても寒い日だっていうのに、娼婦のお姉さんたちは昼間から露出度の高い格好に毛皮のコートをはおり、派手な化粧で男たちに「ボンジュール」と声をかける。2~3人で談笑している娼婦たちや、口紅を塗りなおしている娼婦。この昼間の明るさと、日常的な街の風景と、そして通り過ぎる普通の人達との対比がなんだかとても非現実的で、映画のようだった。かたや「パッサージュ・デュ・ケール」周辺は服飾関係のメッカ。大阪の本町あたりの問屋街といった感じだろうか。
今日行った所はいずれも今までとは比較にならないくらい美しくない。寂れた温泉街の商店街を想像してもらっていい。それに民族色が強くなっていてアラブ人やインド人や中国人に占領されている。しかしどんなパッサージュも始まりは同じで、当時は流行の最先端だったところだ。歴史の移り変わりで、都市計画の犠牲となったもの、牢獄のようになってたたずんでいるだけのもの、もうすぐ葬られるもの・・・など人々から忘れ去られようとしているものは、いつも私の心を強く惹くのだ。再開発で新しく手を加えられたパッサージュはとても豪華で美しいが、それは若い女性が美しいと言われるのと同じようなものだ。この間見た映画に出ていたジャンヌ・モローの老化にはひどく驚かされたが、それでも彼女には気品や知性があふれていた。パッサージュの魅力もそういったものだと言えるかもしれない。
さあ、来月のテーマは「バス」。今から楽しみ!

■1996.1.29(月)
昨日から晴れてはいるが、やはり寒い。今まで暖房なしで頑張っていたが、一昨日くらいから使い始めた。こちらの暖房は日本のように点けたり消したりしないほうが経済的なタイプ(だと思われる)なので、低い温度設定でずっと点けておくのだ。これだけでだいぶ暖かい。でも電気代が未知数なので2ヵ月後(こちらの公共料金は2ヵ月毎の請求)が少し心配。
今日は学校の帰りに近くにある「ラ・メゾン・デュ・ショコラ」という高級チョコレート店で、母への誕生日プレゼントを選んだ。いつも学校へ行く途中の道にあるこの店のショーウィンドーを見入っていたのだ。「おいしそうだなあ」ってね。でもとっても高いので、自分のためにはとても買う気にはなれないのだが、プレゼントとなれば話は別。思い切ってドアを開けて中に入った。売り子さんの態度もさすがに一流店だけあって、気持ちのいいものだった。だからいつい私もいつもより饒舌になってしまい、この感じの良いお姉さんと雑談を楽しんだ。今日はきちんと頭が動いていたからでしょうか?先週は私の頭は故障中で、まったく調子が出なかったんだけど・・・。日本にいる母への贈り物なのだと言うと「ええ、これならきっと満足されるはずです」との返事。私も試食をさせてもらったが、幸せで笑顔がこぼれるおいしさ、パーフェクトなトリュフ。なんだか古いけど映画「ティファニーで朝食を」のような気分でした。このおいしさそのまま母の手元に届くかな?

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